鉄道から現代史が見える!日本の政治に振り回されたC56

鉄道から現代史が見える!シリーズです。

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今回は「高原のポニー」と呼ばれたC56型蒸気機関車です。

「高原のポニー」とは愛らしい愛称ですが、小型の機関車が高原の小海線(八ヶ岳山麓)を走っていたことから名付けられました。

 

 

しかし「高原のポニー」という愛称とは裏腹になかなか近現代の日本史のヘビーな側面に振り回された機関車でもあります。

 

1 我田引鉄

今も昔も公共事業の裏には政治家と地元の深い関係があります。立憲政友会が主に自分の票田に鉄道を引きまくった、という話からこの言葉がありますが、政党政治華やかなりし頃にはあちらこちらに路線が作られました。

しかしこのような政治的な思惑で需要を無視して作られた線区では立派な設備を作ることはできません。そこで貧弱な規格の「簡易線」と呼ばれる路線が多く作られましたが、そのような線区には明治時代の機関車が投入されました。ただそれらが老朽化して新しい機関車が作られました。それがC12です。しかし長いローカル線では炭水車を後ろに連結したタイプの機関車が要求され、C12をもとに炭水車(テンダー)をくっつけた形のC56が作られました。

 

2 戦争とC56

C56は北は北海道の日高本線、南は南九州の宮之城線まで距離の長いローカル線に使われました。長距離を走れ、線路に負担をかけないC56は陸軍の注目するところとなり、1号機から90号機までの過半数の車両が陸軍に徴用されました。ちなみにC56は全部で160両作られています。

C56は1941年11月からタイとミャンマ(ビルマ)に送られ、日本陸軍によって建設された「泰緬鉄道」に投入されました。しかし戦争の真っ只中ということもあり、戦争を生き抜いたのは50両足らずにとどまり、あとは戦闘や事故などで失われました。そして残った46両も日本に帰ってくることなくタイ国鉄で使われることとなりました。またインパール作戦失敗によりミャンマ(ビルマ)に取り残された2両はそのままミャンマ(ビルマ)国鉄に残ることになりました。

 

3 戦後の活躍

日本に残ったC56は引き続き各地のローカル線で使われます。戦後の近代化の中で新しいディーゼル機関車が投入されていきますが、C56が活躍していた路線はディーゼル機関車が入れないような貧弱な路線であったこともあり、旅客はディーゼルカー、貨物はC56による牽引という形がとられていました。

中でも小海線では中込機関区に4両が残り、小海線の貨物列車、特にレタスなどの高原野菜を運ぶ運用に使われ、東京に近いこともあって多くの鉄道ファンが訪れて「高原のポニー」と呼ばれて親しまれてきました。

 

4 C56の終焉

しかしC56も後継となる簡易線用のディーゼル機関車であるDD16が投入され、また自動車への貨物の転換も進み、C56はその数を減らしていきました。C56の最終運用は島根県の三江北線の貨物運用で、1974年のことでした。

C56はラストナンバーのC56 160号機が梅小路蒸気機関車館(現京都鉄道博物館)に保存され、動態保存のみならず、本線運用もこなせる形で残されました。そのためどこでも走れる機関車として重宝され、特にSL北びわこ号ややまぐち号として活躍を続けていましたが、D51 200号機の車籍復帰にともない、本線運用から離脱し、D51 200号機に代わって京都鉄道博物館でのSLスチーム号の運用に着くようになりました。

 

5 C56の帰国

泰緬鉄道に供出され、タイやミャンマ(ビルマ)に残されたC56のうち、タイ国鉄で残されていたC56は日本と同じ頃に廃車になり、放置されていましたが、そのうちの31号機と44号機が発見され、関係者の協力によって日本に帰ってきました。

現在31号機は泰緬鉄道の状態に復帰の上で靖国神社に奉納され、靖国神社遊就館で静態保存されています。44号機は大井川鐵道に引き取られ、国鉄のC56とほぼ同じように復元され、現在も大井川鐵道でSL急行を牽引しています。機関車トーマスシリーズのジェームスにも(以下自粛)

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