生に執着した後花園天皇

『鎌倉殿の13人』の最終回での北条義時の壮絶な最期が話題ですが、負けず劣らずの生への執着を見せたのが後花園法皇です。

 

文明二年(一四七〇)十二月二十六日、後花園法皇は中風で倒れます。

 

彼は投薬を指示しますが、もはや薬を服用することもできない容態となっていましたが、それでも灸を指示するなど、最期まで生に執着します。

 

後花園法皇の無念は弟の貞常親王が書き残しています。

 

貞常親王は白河法皇と後花園法皇を比べ、白河天皇については「天下おさまり、御心にのこる事なく、いきとしいけるものの命をすくはれし」と表する一方で、後花園天皇については「いまだ御行すゑもはるかなる御事のおもひあへず雲がくれたまへば、君も臣もただあきれまどへるばかりなり」と評しています。

白河法皇の「御心にのこる事なく」と後花園法皇の「おもひあへず雲がくれ」が対照的に表現されていますが、この両者の対照を敷衍すれば、白河法皇の「天下おさまり」「いきとしいけるものの命をすくはれし」に対して後花園法皇は応仁の乱を引き起こし、多くの命を失わせたということになります。

 

後花園法皇自身貞常親王への手紙の中で「かやうの珍事出来し候事、人めしちもかたがためむぼくなき次第」と述べ、「老後の恥辱も口惜しく覚候」としています。彼の人生への想いを一言で言えば「人間の交無益千万」であり、伏見に逃げ帰りたいと述べています。

 

想像になりますが、自らの戦争責任から逃走しようとした後花園法皇を押しとどめたのは貞常親王ではなかったかと私は考えています。

 

その後の後花園法皇は応仁の乱を終わらせるための東西両軍の仲介に乗り出したり、自らの避難先である室町第が攻撃された後は、西軍治罰綸旨を出すなど、東軍の最高軍事指揮官として活動し、さらには西軍が擁立した後南朝に呼応した各地の後南朝攻撃の司令塔となって奮戦中に中風に倒れたのです。その意味では彼の死に様は「戦死」と言えるでしょう。

 

後南朝を断絶させ、西軍をねじ伏せる戦いの最前線に立っていた後花園法皇が、当時としては異例なほどに、それこそフィクションである大河ドラマの主人公ばりに生に執着したのには、後花園法皇のなみなみならぬ決意があったのです。

 

詳細は拙著『乱世の天皇』(東京堂出版、二〇二〇年)をご覧ください。

 

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

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