鉄道から現代史が見える!戦後復興を支えたオハ60系列

今日も日本の現代史と鉄道の関係です。

 

今日の主人公はオハ60系列です。「オハ」が何かについては前回の記事をごらんください。

鉄道から日本現代史が見える!戦争と平和の世を走り抜けたスハネ30

 

1 オハ60系列の開発のいきさつ

戦前には植民地だった朝鮮半島、台湾やそれに準ずる満州国、あるいは日露戦争によって手に入れた北方領土やサハリンなどを日本は敗戦によって失います。その結果大量の人々が日本に帰国しました。一気に人口が増えましたが、それを受け入れる余地が戦争によって大きな損害を受けた日本社会にはありませんでした。

 

列車は満員で、人の乗りすぎでガラスが割れるのは日常茶飯事、客車が足りないので貨車を客車がわりにしたり、機関車や屋根にまで人々が乗ったり、など大変な状態でした。

 

特に都会の人々は農村に食料の買い出しに出かけます。乗客の乗りすぎでつねに危険な状態にありましたが、その中で痛ましい事故が起こります。

 

八高線という線が関東にあります。八王子駅と高崎駅を結ぶ路線ですが、ここにも東京近郊の農村に買い出しに出かける人が多く利用していました。その列車が乗客の乗りすぎで重量オーバーし、ブレーキが効かなくなって高速でカーブを曲がりきれずに4両が脱線し、184名の死者と495名の負傷者が出ました。

 

ここまで多くの犠牲者が出たのは古い木造の客車が多く残っており、その車両が破壊されたことが大きかった、と見られ、国鉄はその対策として木造の客車に対して鋼鉄製の客車を作る必要に迫られました。

 

しかし当時の日本はGHQ(連合国軍総司令部)が支配しており、車両を新しく作るにもGHQの許可が入ります。そして当時の日本の財政状況から見て新しく客車を作るのは無理であり、GHQも消極的でした。

 

そこで国鉄は木造客車の車体を載せ換える改造という名目でそれらの条件をクリアしようとします。国鉄の必死の説得でGHQも許可を出しました。

 

2 オハ60系列の増備

木造車を鋼鉄製に変えるために、台枠と呼ばれる客車の床部分は再利用しました。他には台車や連結器などが再利用されています。

古い客車は17mです。一方新しい客車は20mでした。そこで17mの客車の台枠3両分で20m客車2両分を作るという形で作られました。

 

車体を作るにあたって車内はあくまでもローカル輸送を念頭に置いて設計されています。台車は古く乗り心地の悪い台車をそのまま使っています。車内は座席の間隔を狭くして少しでも多くの人が乗れるようにしています。座席のせずり(もたれる部分)にはクッションやモケット(布)を省略して板そのままを使いました。

ここに車内の様子の写真があります。

オハユニ61の座席(Wikipedia)

 

外観は次のようです。

 

まあ見た所普通の客車です。

 

3 華麗なる転身

1950年代に入り、日本が高度経済成長に入ると、動力の近代化政策が始まります。当時の日本の鉄道の主力は蒸気機関車(SL)でした。しかし蒸気機関車は手間がかかり、また煙がひどかったので、電化とディーゼル化が進められることになりました。特にローカル線では長編成の客車よりも短編成で動けるディーゼルカーが向いていました。

 

北海道ではキハ21、キハ22が投入されましたが、ディーゼルカーへの要望は強く、車両が足りない状況が続きました。さしあたり客車をディーゼルカーに引っ張らせることもやりましたが、当時のディーゼルカーの出力では弱く、難しいものがありました。

 

そこで考えられたのが、余ってきた客車にディーゼルカー用のエンジンなどを積み込んでディーゼルカーにすればいいではないか、ということです。

 

早速オハ62(オハ60系列のうち、北海道用)にエンジンを積み込みキハ45、後に改番してキハ08ができました。しかし重たい客車に力の弱いエンジンを積み込んだため、性能がよくありませんでした。ディーゼルカーは車体を軽く作ってあるのですが、機関車に引っ張られる客車は頑丈に作られていました。

 

改造費用もかなりかかり、新しく作るのと比べて半分以下にはなりませんでした。

 

どう考えても失敗作であったため、結局総数14両で製作は打ち切られ、四国と北海道で細々と使われました。1971年には姿を消してしまいました。

 

4 加悦鉄道に移ったキハ08

京都府の北に加悦鉄道という小さな鉄道があります。基本はニッケル鉱石を運ぶ鉄道でしたが、旅客を運ぶために国鉄から廃止になったキハ08を購入しました。

加悦鉄道は国鉄が貨物列車を廃止したためにニッケル鉱石を運び出すルートをトラックに切り替えざるを得なくなり、1985年に廃線となり、キハ08も廃車されました。現在も加悦SL広場に保存されています。ただ加悦SL広場は閉園を余儀無くされる方向だそうで、残念なことです。

NPO法人加悦鐵道保存会

 

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