応仁の乱の原因を分かりやすく説明するための一工夫

応仁の乱の原因って説明するの難しいですよね。私は駆け出しの塾の講師のころ、ずいぶん苦労してました。

 

いや、別に「将軍足利義政の跡継ぎ争いから細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)が戦争を始め、十一年間も続いたため、京都は焼け野原となり、戦国時代が始まりました」で済ませてもいいんですがね。入試ではそれ以上聞かれないと思いますし。

 

前回伊勢貞親を応仁の乱の原因に加えることをおすすめしました。

受験生向けに応仁の乱を少し詳しく解説してみた

この効果を検証してみたいと思います。

 

目次

1 日野富子暗躍説に基づく昔からの説明

2 伊勢貞親の文正の政変を入れた新しい説明

 

1 日野富子暗躍説に基づく昔からの説明

⑴足利義政には子供がなかなか生まれず、弟の義視を後継者にした。

⑵義政に息子の義尚が生まれた。

⑶義視には勝元がバックについた。

⑷富子は我が子を将軍につけたい、と宗全を頼った。

⑸両者激突!

⑹義政と勝元と義視と富子と義尚は同じ室町第にいる!室町第は東軍と西軍が入り混じっていたのだった!

⑺義視が飛び出して宗全と組み、富子と義尚は東軍を頼った!

生徒たち「?????」

先生「いや、こいつらめちゃくちゃやね。大義もクソもない戦争だった、というわけやね。とりあえず富子はクズ」

生徒「とりあえずめちゃくちゃやねんな。でもとりま富子はクズは分かった」

個人的には⑹からの⑺の流れがわからないです。いや、実際そうだったんだ!と力説されれば私としても事実をねじまげるわけにはいきません。

 

でも、この訳の分からない流れには理由があります。⑷は『応仁記』に見られる流れですが、他の史料にしっかりした裏付けがあるわけではありません。せいぜい『後法興院関白記』に「富子の兄の勝光は宗全と仲がいいらしい」ということが書いてあることが傍証になります。

 

ただこれは勝光が宗全討伐の命令に反対したからです。勝元が義政に将軍の牙旗と後花園の院宣を要求した時に、勝光が反対し、勝元が勝光を恨んで勝光が失脚する流れの中での近衛政家の発言です。勝元から見れば勝光は宗全に肩入れするけしからんやつになります。ただ勝光とすれば、後花園上皇が東軍に一方的に肩入れするのを嫌って院宣を拒否したことに足並みをそろえたまでです。しかし⑷に引きずられると、勝光とその妹富子、そして後花園と後土御門、さらには足利義政までもが「西軍に心を寄せていた」となります。何だか意味が分かりません。というよりも勝元のプロパガンダに踊らされすぎではないでしょうか。

で⑷と全く矛盾する⑺は現実に起きたことです。⑷と⑺を矛盾なく説明しようとすれば「グチャグチャやね。意味がわからんが、これが現実だ」となります。現実は現実かもしれませんが、説明している方も説明されている方もわけがわかりません。

 

2 伊勢貞親の文正の政変を入れた新しい説明

そこで拙ブログでは伊勢貞親を新たに加えることを提案します。ちなみに伊勢貞親を交えて説明するのは近年ではかなり一般にも広がっています。ベストセラーになった呉座勇一氏の『応仁の乱』(中公新書)とか、ゆうきまさみさんの『新九郎奔る!』にも採用されています。それを使うと大変分かりやすくなります。

 

⑴足利義政には子供がなかなか生まれず、弟の義視を後継者にした。

⑵義政に息子の義尚が生まれた。

⑶義視には勝元がバックについた。

⑷義尚の養育係の伊勢貞親は不満に思って義視を排斥しようとしたが、宗全と勝元によって貞親が追放され、義視が救われた。

⑸畠山氏と斯波氏の内紛をめぐって宗全が勝元と対立した。

⑹両者激突!

⑺勝元が室町御所と内裏を制圧し、義政・義視・義尚・富子・後花園上皇・後土御門天皇ゲット!

⑻義視が逃げ出して宗全に加わり、激怒した義政は全面的に義視・宗全と対立。

 

⑷の主人公を富子から貞親に変えるだけで分かりやすくなります。要するに応仁の乱は将軍の後継者争いが理由ではなく、守護大名の内部の争いなのです。特に大きかったのが畠山氏の争いです。それを主軸に説明すると分かりやすいか、と思います。

現在学会では富子暗躍説と貞親説の論争はありますが、貞親説の方が優勢と私は見ています。入試でもそのうちに「文正の政変」は出されてくると思いますので、受験産業でもいち早く対応しておくのは悪くないと思います。

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