受験生向けに応仁の乱を少し詳しく解説してみた

室町幕府で覚えなければならない将軍は四人です。たった四人なんで覚えちゃってください。

 

初代足利尊氏

三代足利義満

八代足利義政

十五代足利義昭

以上です。他は覚えなくて大丈夫です。

 

足利義満の死後、室町幕府がどうなっていったか、についてみていきます。

 

追記

従来応仁の乱の原因について、義尚の庇護を富子が宗全に頼み、義視の後見であった勝元と対立し、応仁の乱になった、という富子暗躍説が塾などの参考書では一般的ですが、今までこれを説明すると大体生徒の頭の中が「???」となっていたのですが、今回、伊勢貞親を中心に述べますと分かりやすく説明できました。塾で社会を担当している先生方には伊勢貞親黒幕説を強く推奨します。学問的にはまだ決着ついていませんが、教えやすさは段違いです。

 

目次

1 足利将軍暗殺

2 足利義政の登場

3 守護大名の内輪もめ

4 将軍家の後継者争い

5 応仁の乱

6 東山文化と銀閣

 

1 足利将軍暗殺

足利義満の死後、斯波義将(しばよしゆき)を中心にした話し合いで足利義持が室町殿となることが決まりました。その結果朝廷と一体化を進めていた足利義満の路線は大きく変わります。公家を自分の部下のように扱っていた義満に対し、義持は公家は天皇・院に仕えるようにしました。そして義持は一歩引いた形で朝廷を支えていきます。

近年の研究によると、義持は摂関家の上、天皇家の下、と自らを位置づけていたようです。義持の時代には前回述べたように大名たちの話し合いが大きな力を持っていました。そしてこの時期は室町幕府が最も安定した時期であるとみなされています。昔は義持の将軍権力は形だけのもので操り人形のように思われてきましたが、むしろ話し合いを自らの権力の元としていると考えられています。

この時期には関東公方の足利持氏(あしかがもちうじ)が関東管領の上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)と対立し、禅秀が兵を挙げて持氏が追放されるという「上杉禅秀の乱」が起こりました。大学受験で出るか出ないか、です。この時は義持の介入で禅秀がほろぼされてうまくいきましたが、もともと禅秀は京都と関係が深い上に義持が禅秀の子どもたちを保護し、さらに禅秀の乱に参加した武将たちも保護したため、持氏と義持の関係は悪くなります。

義持は三十八歳で息子の足利義量(あしかがよしかず)に将軍を譲りますが、引き続き義持は権力を握り続けます。ところが義量が二年で死去するとその後は将軍は置かれず、義持がそのまま引き続き幕府の政治を行います。これはしばしば「義持が再び幕政をみた」と書かれますが、個人的な意見を言えば、「将軍」という肩書きを重視しすぎです。義量は将軍ではあっても室町殿ではありません。ここは受験生の方は忘れてください。

 

義量の死後も義持は後継者の誕生に希望を持っていましたが、結局生まれずに義持自身が風呂でおできを引っかいて、そこから細菌が入り込んで急速に悪化し、あっけなく死んでしまいます。

あまりの急さに後継者を決めることもなく、死んでしまいました。というか、もう誰がみてもダメだ、という時に義持のそばに仕えた僧である醍醐寺三宝院門跡の満済(まんさい)が後継者を尋ねたところ、「お前らで決めろ」というばかり。大名たちは「室町殿が決めてください」というばかり。結局くじで決めることになりました。

四人の弟が候補者です。延暦寺青蓮院門跡前天台座主の義円(ぎえん)、大覚寺門跡の義昭(ぎしょう)、相国寺の虎山永隆(こざんえいりゅう)、延暦寺梶井門跡の義承(ぎしょう)です。この四人の名前を紙に書いたのが満済、それをのりでくじにしたのが山名時熙(やまなときひろ)、そしてそれを石清水八幡宮に持って行ってくじを引いたのが畠山満家(はたけやまみついえ)でした。その結果、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の義円に決まりました。

 

義円は還俗(僧侶をやめて一般の人になること)し、六代将軍足利義教(あしかがよしのり)となります。その代替わりに借金を無かったことにする「徳政令」を求めた「土一揆(どいっき・つちいっき)」が起こります。当時の年号をとって「正長の土一揆(しょうちょうのどいっき・しょうちょうのつちいっき)」と言います。これは幕府に鎮められますが、大和国では「私徳政」が行われ、その石碑が建てられました。

 

義教は将軍に権力を集中する方針をとり、邪魔になる人々を倒して権力を強くしていきます。山名時熙の後継者は兄をさしおいて弟の山名持豊(やまなもちとよ)を、斯波義淳(しばよしあつ)の後継者には義淳の遺言とは違う斯波義郷(しばよしさと)を、畠山満家の後継者には畠山持国(はたけやまもちくに)に変えて弟の畠山持永(はたけやまもちなが)を、一色義貫(いっしきよしつら)を殺して一色教親(いっしきのりちか)を、京極持清(きょうごくもちきよ)に変えて京極高数(きょうごくたかかず)を、それぞれ選びます。ちなみに京極持清は、京極高次のご先祖です。あのお初の夫ですね。

 

こうして三管領四職の家柄の中で残ったのが赤松満祐(あかまつみつすけ)と細川持之(ほそかわもちゆき)だけになりました。持之はまだ若く、後継者の問題が出ていないのと、細川一門は内部の団結が強く、後継者争いが起こりそうにもありませんでした。そこで人々は噂をしたのです。「次は赤松がやられるぞ」と。事実赤松満祐(あかまつみつすけ)の一門にあたる赤松満政(あかまつみつまさ)や赤松貞村(あかまつさだむら)が義教のお気に入りとなっていました。危険を感じた満祐はついに義教を殺してしまいます。これを嘉吉の乱といいます。将軍が家臣に殺されるという大事件に室町幕府は大騒ぎでした。

満祐は滅ぼされましたが、そのどさくさに義教に追放された畠山持国が帰ってきて義教の路線をひっくり返し始めます。

 

一方細川持之の死後あとを継いだまだ若い細川勝元は、持国に対抗するために山名持豊と組むことを選びます。持豊はヘマをして出家し、名前をよく知られた「宗全(そうぜん)」とします。

 

幕府にとっていたいのは満祐を倒している間に手薄になった京都に一揆がなだれ込んで借金を無かったことにする「徳政令(とくせいれい)」を要求し、結局幕府はそれに押されて徳政令を出してしまいます。これを嘉吉の徳政一揆といいます。これは幕府の財政を破壊することになりました。

 

2 足利義政の登場

足利義教の死後、後を継いだのはまだ八歳の足利義勝でした。室町殿が不在の時は管領が最高指揮者となりますが、管領の持之は嘉吉の乱の時のとっちらかりぶりで影響力を失い、幕政をリードしていたのは後花園天皇(ごはなぞのてんのう)と義勝の母の日野重子(ひのしげこ)と畠山持国でした。朝廷と幕府の一体化は、天皇の後見をする室町殿を生み出しましたが、同時に室町殿を後見する天皇も生み出したのです。

 

義勝は赤痢でわずか十歳で死去し、あとを弟の義政が継ぎます。室町殿の権威は失われてしまいました。政治は引き続き畠山持国・日野重子・後花園天皇が行い、義政は成長を待つだけでした。

 

大人になった義政は権限を持国や後花園天皇から政治の実権を返してもらい、将軍親政への道を歩み始めます。そして義政には重子の姪、つまり義政にとっては母方のいとこの日野富子と結婚することになります。

 

母の重子や父がわりの後花園天皇(後花園は義政の名付け親)、重臣の畠山持国といった面々から自立を果たした義政を支えたのは、政所執事の伊勢貞親(いせさだちか)でした。貞親は義政の育ての親でもあり、義政は貞親を「御父」と読んでいました。

義政は将軍独裁を目指し、貞親を中心に軍事と経済の掌握を行います。伊勢氏が政所、奉公衆などをおさえ、義政を支えていきます。

特に貞親は土一揆に際して徳政で得をした借金を抱えている人(債務者といいます)から手数料を受け取ります。また徳政令を適用されないための手数料を、金を貸している人(債権者といいます)から受け取ります。どちらに転んでも幕府は得をします。これを「分一徳政令」といいます。この辺は大学受験の人だけ押さえておいてください。こうして幕府の財政は建て直され、伊勢貞親の幕府での力はますます強くなりました。

 

3 守護大名の内輪もめ

畠山持国には息子がいました。ただ母の身分が低かったため、後継にはなれず、弟の持富が後継者となっていました。持富には息子がいました。本当は兄弟がいたのですが、兄は面倒なので弟の政長だけをとりあげます。畠山の家督は持国→持富→政長と行くはずでした。しかしここで何を血迷ったか、持国はいきなり自分の子どもを取り返した畠山家を継がせます。畠山義就(はたけやまよしひろ)と言います。学校ではあるいは「はたけやまよしなり」と習うかもしれません。一応学校の先生に従うようにして、間違っても「塾の先生が言っていた」とは言わないようにしてください。最近は少なくなりましたが、特に兵庫県では絶滅危惧種だとは思いますが、中には塾が嫌いな先生もいらっしゃいます。

 

義就と政長が争うのは火を見るよりも明らかです。しかもそこで山名宗全と細川勝元が組んで政長を支援します。畠山氏を二つに割って弱らせるためです。この策はあたり、畠山氏はあっという間に衰えてしまいます。しかし宗全と勝元はまさかそれが自分たちをも襲うとは夢にも思わなかったでしょう。

 

義政という人物はとかく優柔不断(ぐずぐずして決められない)な性格です。しかも人の言うことに左右されやすく、気が変わりやすい、という政治家としては非常に向いていない性格でした。彼は政長と義就の争いに対しても引っ掻き回して事態を悪くさせることしかしていません。

 

義政は赤松家を復活させようと考えました。義政政治を支えるブレーンの季瓊真蘂(きけいしんずい)という僧侶が赤松氏出身で、しかも山名と赤松は対立関係にありました。そして細川と赤松は親しい関係にありました。この赤松を無理矢理に復活させれば宗全と勝元を引き裂くことができる、と考えました。それは見事に当たりました。

 

斯波家では当主の若死にが続き、ついには跡継ぎがいなくなりました。そこで一族の大野斯波氏から斯波義敏(しばよしとし)を養子に迎えましたが、重臣と対立してしまったため、義政は渋川氏から養子を送り込むことにしました。渋川義廉は斯波義廉(しばよしかど)となり、斯波家を継ぎました。これに怒ったのが義敏です。義敏は貞親を頼って勢力を盛り返そうとします。

 

4 将軍家の後継者争い

義政は三十歳近くなっても子どもが生まれず、浄土寺という寺の僧侶となっていた弟の義尋(ぎじん)を自分の後継者にします。そして富子の妹と結婚させます。将軍を譲るつもりでした。義尋は還俗して足利義視(あしかがよしみ)と名乗ります。やがて義政には足利義尚(あしかがよしひさ)が生まれますが、義政は義視を追い出すことはしませんでした。義視のあとに義尚が継ぐと考えていたのです。

 

一方その動きに反発したのが義尚を育てていた伊勢貞親です。貞親は義視を滅ぼそうと動きますが、義視は間一髪で逃れ、細川勝元と山名宗全を頼ります。宗全と勝元は貞親を追放することを義政に認めさせ、貞親は追放、義政は権力を失います。これを文正の政変といいます。大学入試で出るかどうか、です。

 

なお義視の排除を狙ったのは富子で、富子が宗全に義尚のバックアップを頼み、それが応仁の乱につながった、という見方が長く信じられてきましたが、近年では富子は無関係、という見方が有力になっています。

 

5 応仁の乱

文正の政変では一緒に貞親排除に乗り出した宗全と勝元ですが、宗全は突如畠山義就支持に回り、畠山政長を支持する勝元と対立するようになります。文正の政変から両者の激突まで実は半年しかありません。

 

1466年末に義就支持を明らかにした宗全は政長の排除を義政に強要します。義政は政長の管領をやめさせて義就支持を表明しますが、両者の武力衝突には手出し無用という形で事態の解決に乗り出そうとします。しかしその方法は失敗しました。後花園上皇が政長を滅ぼせという院宣を出していたようで、義就の援軍に宗全らは向かい、政長は敗北します。宗全による幕府の支配は完成したかに見えました。

 

しかし勝元は宗全への反撃を1467年5月に開始します。これが応仁の乱の始まりです。勝元は室町第と内裏を武力で押さえ込み、将軍足利義政・日野富子・足利義視・足利義尚・後花園上皇・後土御門天皇を確保することに成功しました。そしてさらに武力をバックに義政や後花園に宗全を滅ぼせという命令をもらおうとします。義政は当初拒否しますが、勝元の圧力に負けて宗全討伐の命令を出します。反対した日野勝光(富子の兄)は勝元から憎まれ、義政に保護されることになります。おかげで勝光と富子は山名関係者と思われてしまいました。

 

勝元は室町第を中心に陣を作り、宗全はその西側に陣を作ったことから、勝元を東軍・宗全を西軍といいます。

 

戦いは一進一退ですが、義視が勝光への不満から逃亡し、一旦は復帰したものの、自分をかつて殺そうとした貞親復帰に反発して西軍に行ってしまいました。ここにこれまで煮え切らない態度だった義政・富子・後花園は宗全への敵対をはっきり決めます。宗全は義視を将軍とし、ここに「西幕府」が成立しました。

 

このまま戦いは動かなくなり、宗全と勝元の死をきっかけに和睦の動きが強まり、最後は西軍が東軍に降伏する形で応仁の乱は終わります。

 

応仁の乱をきっかけに大名たちはそれまで住んでいた京都を離れ、自分の領国に帰っていきます。こうして室町幕府はその中身を失い、戦国時代が始まります。

 

その後勝元を継いだ細川政元(ほそかわまさもと)が、義政を継いだ足利義稙(あしかがよしたね)を追放して足利義澄(あしかがよしずみ)を将軍にする「明応の政変」が起こります。将軍が追放されたこの明応の政変こそが戦国時代の始まりという説もあります。

 

6 東山文化と銀閣

義政の時代には日明貿易も思うようにいかなくなり、また幕府の財政も苦しくなっていく中で、幕府の持っているお宝が売却されていきました。その中で墨絵や侘び茶など「わびさび」「幽玄」といった落ち着いた文化が発展します。これが東山文化です。義政の政庁であった東山殿を死後に寺にした慈照寺の銀閣や東求堂は有名です。特に東求堂同仁斎は書院造と言われる建築様式で、床の間など現代に通じる日本建築の基礎を作ったことで有名です。

内藤湖南という研究者は「日本の歴史は応仁の乱以降を学んでおけば事足りる」と言ったことで知られています。おおげさではありますが、現代につながる「古典文化」というのはこの時期に作られたものが多いのは事実です。これは東アジア全体で「古典文化」と言われて我々が思いつく文化が形作られてくることと対応しています。この時期に大きな変動があったのは事実です。

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