室町時代の産業・村・都市・一揆
室町時代の産業や社会のあり方について説明します。
ポイントは鎌倉時代の産業などと比べて出されるので、しっかりと比較しておくことが肝要です。
例えば農業ならば「二毛作が西日本=鎌倉時代」、「二毛作が全国=室町時代」という説明がなされますし、商業ならば定期市が月に三回ならば鎌倉時代、月に六回ならば室町時代といった具合です。
目次
1 室町時代の産業
2 室町時代の村
3 室町時代の都市
4 室町時代の一揆
1 室町時代の産業
⑴農業
肥料が鎌倉時代には草木灰が使われ始めましたが、室町時代には牛馬糞が使われるようになり、生産力が向上しました。二毛作も各地に普及し、農業生産は非常に向上しました。また特産物が各地にでき始めるのもこのころです。商品として全国に運ばれるようになりました。綿花の栽培も始まりました。おわり。
一応上記のことを覚えておけば中学入試では十分すぎるくらいです。中学校に入ってもこれくらいの知識でしょう。
だからあとは飛ばして、次の項目に進んでも大丈夫ですし、「暗記だ!」系の講義ではここで次に行くでしょう。
この教室ではもう少し詳しく見ていきます。
上のように見れば室町時代は非常に生産力が上がった時代に見えます。事実そうらしいと言われているのですが、実際には飢饉がしばしばおきた、大変な時代でした。
14世紀の半ばといいますから、南北朝時代あたりから世界的には小氷期と呼ばれる寒冷期に入っており、気候は不安定になっていました。しばしば冷害や干ばつが起こり、日本ではしばしば飢饉が起こっています。このような中で生産力を上げようと先人たちが努力してきた、という側面を見逃してはいけません。
飢饉では応永の飢饉(1420年)と長禄・寛正の飢饉(1459〜1461年)が有名です。いずれも都市に向かって周辺の地域の人々が流入してきて都市が崩壊する、という形でおきた、と考えられています。
飢饉というのは実は消費地よりも生産地が先にやられます。なんとなく消費地の方が先にやられ、生産物がある生産地の方が生き残りそうですが、実際は逆になります。
飢饉の多くは生産地が崩壊して生産地の植えた人々が都市に行けば何とかなるだろうというはかない夢を抱いて都市に来て、そこで力つきて餓死する、というパターンが多いのです。生産地で作られた「もの」は、都市で消費されるために都市に移されます。生産地で消費する分は残りません。
長禄・寛正の飢饉の場合は河内国での畠山氏の内紛で田畑が荒らされたことがさらに大きいです。彼らが押し寄せて都市機能が崩壊してしまうのです。
⑵鉱業
銅・硫黄は日明貿易の重要な輸出品でした。他に鉱山が開発され、石見銀山は特に有名です。現在世界遺産に石見銀山は指定されています。おわり。
ざっとこんなところです。9時間で歴史を全部終わらせろ、と言われれば、この程度しか話せません。分かりますが、もう少しだけ解説します。
地理のネタですが、日本は鉱物の種類は豊富です。ただ産出量が少ない。だから最終的には輸入に頼ることになります。室町時代にはむしろ日本は資源を輸出して製品を購入する、いわゆる「辺境」でした。
日本の硫黄は明にとっては火薬を作るのに必要で、硫黄については室町将軍の専売となっていました。山名宗全の父親の山名時熙は硫黄の密売で失脚しています。それから義持が勘合貿易を中止しているころ、島津氏久の使者が「ちわーすっ!義持でーす!ご無沙汰してました〜!また四露死苦!」となりすまし、それに感動した永楽帝が使者を送ったところ義持がキレた、というネタがあります。硫黄の産地であった島津氏の領国を考えれば、勘合貿易を中断するというのは島津氏にとっては死活問題でした。
⑶手工業
これはやはり刀剣やよろいなどが有名です。日本は当時の武器輸出大国でした。このころ各地に特産物ができ、それが海運によって各地に運ばれていきました。おわり。
これ以上、あまり付け加えることもないのですが、船が発達していたころなので、港が大きく発達しています。ちなみにこのころの港のルールに「漂着した船や荷物はその港のもの」というルールがありました。「寄船慣行」といいます。「寄船」とは漂着した船のことです。実際には漂着しているわけではなく、普通に航海していても津料(入港の手数料)を払わない船に「寄船だ」と言いがかりをつけて没収することもありました。荷物についても濡れただけで漂流物扱いされたりするので、その辺は気が抜けません。
また「海賊」と呼ばれる人々がいて、難所の水先案内人みたいなことをしていました。金を払って海賊に警護してもらうと無事に通行できたりするのです。こういった海賊と呼ばれる人たちは幕府や守護の公認だったりします。
あとは明日以降に続きます。
2 室町時代の村
3 室町時代の都市
4 室町時代の一揆