なぜ歴史を学ぶ必要があるの?プロ歴史学者がお答えします

歴史好きの人が必ずと言っていいほど受ける質問がこれです。「なんで歴史を学ぶ必要があるの?」

 

この質問が出るのは、質問する側がこう思っているからです。「昔のことを知って何になるの?」と。

 

気持ちはわからないでもありません。例えば【603年冠位十二階】【604年十七条の憲法】【607年遣隋使】などということを覚えさせられれば私でもいやになります。

 

「楽しく語呂合わせで覚えられます♪」

 

・・・いやです。そもそも私は語呂合わせを覚えるのも苦痛です。あんなものを楽しく覚える根性がある人を私は尊敬します。

 

問題は、覚えたその知識、受験以外の何か役に立ちますか?

 

立ちません(キリッ)。607年に誰が何をしようが関係ありません(きっぱり)。これ、歴史ぎらいの生徒の言い訳ではありません。大学で四半世紀(4分の1世紀)近く歴史学を講義してきたプロの歴史学研究者が言うのですから間違いはありません。他の研究者に聞いても同じことを言うでしょう。

 

では何の役に立つのでしょうか。

 

まず今回は受験にも関係のあるレベルでの役に立つポイントを書きます。

 

歴史の流れをおさえる

 

まずはここからです。

 

すでに述べたことですが(社会は暗記科目か3冠位十二階→憲法十七条→遣隋使の訳)、この【603年冠位十二階】【604年十七条の憲法】【607年遣隋使】の流れの前には【600年第一回遣隋使】という出来事があります。そしてそこで赤っ恥をかいてきたのです。『日本書紀』ではそこを隠してしまったのですが、『隋書』倭国伝にはしっかりと記録されていました。

 

こういう日本の恥になることを隠す、というのは、自信がないからです。自分の国に確固たる親愛の情を持っていれば、たとえ恥ずべき過去を背負っていたとしても、それに向き合い、反省し、改善して聞くことができるはずです。

 

そして推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の当時の3トップはそれを成し遂げることのできる器の人物でした。彼らは冠位十二階などの(憲法十七条は疑念も持たれている)制度をしっかりと作り上げ、607年に胸を張って遣隋使を送り出すことができたのでした。

 

実はこの時煬帝が送り込んだ裴世清という人物はかなりの下っ端だったようです。煬帝からすれば野蛮な倭には下っ端でいい、と思ったかもしれません。しかし当時の倭(日本)は彼からも多くのものを学びました。また隋に多くの留学生を送り込み、貪欲に謙虚に隋から多くのものを学び取ったのです。このような姿勢は今日の我々にも有益な示唆を与えます。

 

倭は再び過ちを犯します。白村江の戦いです。夜郎自大となった倭はあろうことか唐に戦争を仕掛けます。しかしコテンパンにやられ、天智天皇はその尻拭いから始めます。

 

その後天智天皇・弘文天皇・天武天皇・持統天皇の時代は中国風の律令国家を作り上げる過程でした。彼らの努力は701年の大宝律令となって実を結びます。

 

ここに現れた国家体制は、天皇とそれを支える官僚層に全ての権力が集中し、国家によって一人一人がしっかりと戸籍に載せられ、一人一人に税金がかかるシステムです。その頂点に天皇がどっしりと座るシステムを持統天皇に至る長い歴史の中で作り上げてきたのです。

 

というのはそれまでの天皇は戦争を勝ち抜いてなんとか位についていました。天皇の代替わりには常に殺し合いがつきものでした。

雄略天皇のころに大王家では殺し合いが続き、誰もいなくなります。

あとをついだ継体天皇の後継者も安閑天皇・宣化天皇と欽明天皇の間で争いがあり、推古天皇に決まる過程では崇峻天皇が犠牲になります。

推古天皇死後には山背大兄王が犠牲になり、皇極天皇はクーデターで位を退き、孝徳天皇もクーデターで失脚し、寂しい死を迎えます。

孝徳天皇の遺児の有馬皇子は処刑され、天智天皇の死後には壬申の乱が起き、天武天皇の死後には大津皇子の処刑という事件があります。天皇の継承は血塗られていたのです。

 

大宝律令の成立によってシステムとしての天皇制が完成し、文武天皇は若くして天皇になります。これは祖母の持統天皇に至るまで、血塗られた天皇の歴史を克服し、天皇の地位を安定したものにするための努力だったのです。

 

天武の頃には「大王」を改めて「天皇」に、「倭」を「日本」に改めていたことが分かっています。ただ唐に対して「日本」という国号を主張し、変えるように求めたのが701年に出発し、702年に唐に到着した遣唐使です。その前年に大宝律令が出されています。さらにその直前の694年には初の本格的な都城である藤原京が作られています。つまり「日本」という国号、「天皇」という君主の称号、「大宝律令」という基本法典、「藤原京」という都城、さらに国の歴史書である『古事記』と『日本書紀』はセットで押さえておくべきものなのです。

 

こう考えてみますと、実は「701年大宝律令、文武天皇」という文字列にはそれほど意味がないことがわかります。文武天皇よりもそれを実際に作り上げた持統天皇をそちらに関連づけるべきです。また文武天皇という若い天皇を無事に天皇という地位につけておくために祖母の持統天皇が必死に作り上げたのが、先ほどの4点セットからなる「日本の古代国家」だったわけです。

 

持統天皇といえば「春すぎて」の百人一首の和歌で有名で、それ以外では白鳳文化の時の天皇として名前が出ますが、大宝律令・日本書紀にも深く関係している天皇であることを知っておくべきです。

 

こうして見直すことでこれまで無機質な数字と言葉が並んでいるだけだった【607年遣隋使】とか【701年大宝律令、文武天皇】という文字列が、初めて人間の営みとして、生き生きとした意味をもって目の前に現れてくるのです。

 

さらにこうしたシステムを保つために必要な費用はどうなっているのか、ということを理解するために「租・庸・調」などの言葉があります。そうするとそれを負担していた人たちはどんな生活をしていたんだろう、とか思いませんか。今度はそうした人々の生活を知ろうと思います。こうして知識は広がり、関連を持って意識づけられるのです。

 

そしてこの先に「歴史を学ぶ意味」というのが出てくるのです。

 

歴史を超えて人間には変わらないことがあります。これを学び取ることも十分大事です。

 

しかしもう一つ、我々と彼らとは違う価値観で生きている、という事実にも行き当たります。そうです。我々は歴史を学ぶことで「他者」というものを知ることができるのです。そして多様性というものを知ることにもなります。現在の我々の立場を見直すための、「ものの見方」を教えてくれるのです。今、我々の目の前に見えているものだけが世界ではないのです。自分の目にうつる世界がいかに限定されているか、ということを知るための道しるべでもあるわけです。

 

このような視点は、ひたすら細切れになった知識を効率的に覚えていくだけでは決して身につきません。それはあまりにももったいないことではないでしょうか。

 

私はそのような現状をなんとかしたい、と思っています。

 

ちなみに飛鳥時代の持統天皇が、こんな下のアイキャッチ画像のような十二単をきているわけはありません。

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