歴史の大きな流れを押さえようー旧石器時代〜飛鳥時代
歴史は暗記が必要です。と言っても、国語も漢字や熟語を暗記する必要がありますし、算数も理科も暗記項目が多いのですが、歴史が暗記というイメージが強いのは、闇雲に暗記しても点数になるからです。しかしミスも多くなり、非効率的です。
中学生・高校生の兄貴や姉貴の勉強にも役に立ちます。中学の社会は世界史が混じってくるので、余計に日本史の流れを理解しないとごちゃごちゃがひどくなります。きょうだい関係が壊れない程度におすすめしてください。
はじめに 流れを押さえよう
因果関係は重要ですが、それよりも大きな流れを理解しないことにはどうにもなりません。時代の大きな流れとそこで活躍した天皇・摂関・院・将軍(執権)・内閣総理大臣の名前はしっかりと覚えましょう。その流れを覚えた上で細かい知識を読む(無理に覚えようとはしなくていい)と頭に入りやすくなります。何年、という細かい出来事よりも、歴史の大きなターニングポイントとなった出来事の流れと起きた原因とその結果を覚えた方がいいです。
それを整理せずにとりあえずごちゃごちゃに覚えるので覚えられないし、間違えるのです。しっかりと記憶するためには政治の流れをしっかりと理解し、ポイントとなる大事件と関係人物を整理して覚えた上で、その根幹に枝葉をつけていくのです。根幹も枝葉もごっちゃに覚えていてはいくら脳みそがあっても間に合いません。
1 ヤマト(倭・大和)王権成立以前
旧石器時代
現在の人類(ホモ・サピエンス)成立以降、最初の時代が旧石器時代です。人類発祥がだいたい20万年〜30万年前と考えられていますが、そのほとんどが旧石器時代です。打製石器を使い、狩りや木の実などの採集で暮らしていました。この時代、氷河期のために海面は今よりもはるかに低く、日本列島は大陸とつながっていました。
主な遺跡は埼玉県の岩宿遺跡です。考古学愛好者の相沢忠洋氏が見つけました。
縄文時代
1万年前、氷河期が終わり、温暖な気候となり、海面が上昇します。日本列島が形成され、磨製石器や縄文土器を使うようになります。基本的には貧富の差はない、と言われています。
主な遺跡は三内丸山遺跡(青森県)です。新潟県のヒスイが発見され、広い範囲で交易を行なっていたことが明らかになっています。主に東日本・北日本に分布しています。これは当時気候が現在よりも温暖であったことが原因です。
他には大森貝塚(東京都)が有名です。アメリカ人の生物学者モースが派遣しました。
人々は竪穴住居で暮らしていました。土偶という人形は有名です。青森県亀ヶ岡付近の土偶が大体写真に載っています。
弥生時代
紀元前4世紀ごろ、稲作が伝わり、土器もかざりの多い縄文土器から、薄い飾りの少ない、硬い弥生土器に変わります。銅鐸・銅剣・銅矛という金属器(青銅器・銅と錫(スズ)の合金)が伝わりました。
東京都文京区の弥生で最初に見つかったことから弥生時代といいます。主な遺跡は吉野ヶ里遺跡(佐賀県)と登呂遺跡(静岡県)です。西日本に多くあります。
稲作が始まり、人々は定住するようになります。ムラが各地に出現し、貧富の差が発生し、それは支配する人々と支配される人々という階級社会を生じさせました。ムラとムラの戦いが繰り返され、やがてより大きな集団であるクニができるようになります。
中国の記録
弥生時代の日本については中国王朝の記録に残っています。
まずは「漢書」地理志です。前漢の歴史書です。100余りの小国がある、と記されています。
次に「後漢書」東夷伝です。倭の奴の国王が貢物を持ってきたので金印を与えた、とあります。これは江戸時代末期に志賀島(福岡県)で発見されたものと言われています。
そして「三国志」(魏志・呉志・蜀志)の中の「魏志」倭人伝です。邪馬台国の女王卑弥呼です。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)や纏向(まきむく)遺跡(奈良県)が候補地として挙げられています。ポイントは銅鏡です。
2 ヤマト王権の成立
5世紀ごろには奈良盆地の三輪山のふもとに大王(おおきみ)を中心にした大和王権が成立します。
朝鮮半島では新羅・百済・高句麗が成立し、大和王権は朝鮮半島南部の伽耶諸国(加羅諸国・任那)と関係を強めていました。
そのころ大和王権はしきりに中国に使者を送っています。
「宋書」倭国伝には「倭王武」をはじめとする「倭の五王」が使者を送ってきた、と記録されています。「武」は二十一代天皇の雄略天皇(ワカタケル)と考えられています。
この時代は大きな前方後円墳が作られたため、古墳時代と呼びます。大阪平野や奈良盆地に巨大な古墳があるため、このあたりが大和王権の中心地と考えられています。
有名な古墳は大阪府堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする百舌鳥(もず)古墳群です。ユネスコの世界遺産に認定されています。
他には埼玉県の稲荷山古墳が有名です。稲荷山古墳から出てきた「獲加多支鹵(わかたける)」と描かれているため、とりあえず雄略天皇は実在した、ということは中国の記録と遺跡から明らかになっています。
3 飛鳥時代ー天皇の登場
大和王権は勢力争いが続き、ボロボロになります。争いを勝ち抜いたのが物部守屋と蘇我馬子でした。渡来人を従え、仏教をはじめとする最新の文明を手にした蘇我氏が勝利し、政権を独占します。
大王家でも争いが続き、最終的に勝利したのが推古天皇・蘇我馬子・聖徳太子(厩戸皇子)の三人をトップとする政権でした。この時代から平城京遷都までを、政治の中心地飛鳥の名前をとって飛鳥時代と言います。
推古天皇が女性天皇であったために聖徳太子が摂政となった、と教科書には説明されますが、まず嘘です。しかしこういう時にわがまま言っていても仕方がないので、ここでは摂政ということでいいです。実際には聖徳太子のやったことは全部蘇我馬子と推古天皇が中心だった、という「聖徳太子はいなかった」説もありますが、まあいいです。
冠位十二階(下級役人の登用)、十七条の憲法(役人の心がけ)、遣隋使という政策について整理しておいてください。
聖徳太子の死後、蘇我氏はますます大王家への関わりを強める中、中大兄皇子と中臣鎌足は天皇中心の国を作ろうと蘇我入鹿を襲って蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の政治を作り始めます。これを大化の改新といいます。645年です。この年代はしっかり覚えましょう。
→645年:大化の改新
大化の改新の主な政策は公地公民です。
いろいろあって、白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍にぼろ負けした大和王権は天智天皇・その弟の天武天皇、天武の妻の持統天皇(天智天皇の娘)を中心に天皇中心の政治を作り上げます。
天武天皇のころまでには大王は「天皇」と呼ばれるようになります。
天皇中心の政治において大きな役割を果たしたのが律令です。いろいろ作られて文武天皇の時代の701年に大宝律令が完成します。
→701年:大宝律令
ここまででまず覚えなければならない年号は二つです。いろいろ覚える前にこの二つの年号を覚えましょう。それは645年大化の改新と701年大宝律令です。そしていろいろな出来事を大化の改新より前か後か、に整理します。そして大化の改新→大宝律令という流れを押さえます。これは公地公民という、天皇が日本の国土と人民を支配するシステムの完成までの流れです。
そしてその律令の仕組みを理解します。これはかなり細かい知識になります。
まず行政組織を軽く押さえます。太政官と神祇官に分かれていることを抑えればいいでしょう。そして人民は戸籍に分けられました。
次に土地制度を押さえます。班田収授法を理解します。6年ごとにつくられる戸籍に基づいて6歳以上の男子には2段、女子にはその3分の2を与え、死亡すれば返させるものでした。
租税制度も細かい事項が続きます。租(稲)、庸(労役または布)、調(特産物)、雑徭(国司のもとでの労働)です。
兵役がありました。軍団に配属はどうでもいいですが、衛士(都の守り)と防人(北九州の守り)は押さえましょう。
文化ですが、政治の流れを押さえた上で主な文化財と関係人物を押さえましょう。
法隆寺(奈良県)→聖徳太子、現存する世界最古の木造建築物、釈迦三尊像、エンタシス
広隆寺(京都府)→彌勒菩薩像
長くなったのでここで一旦終わります。次は奈良時代を見ていきます。