歴史の大きな流れを押さえようー奈良時代
奈良時代に入ります。
持統天皇は奈良盆地の南の飛鳥地方に、それまでとはレベルの違う巨大な都を作りました。藤原京といいます。しかしいろいろ問題があって元明天皇(文武天皇の母親)の時代の710年、平城京を作り上げます。
→710年:平城京(なんと大きな平城京)
平城京の裏側
平城京遷都に先立つ708年には和同開珎が作られますが、この辺は一体化しています。つまり元明天皇は自分の孫の聖武天皇のために都と銭を作り、天皇の権威を高める必要があったのです。さらに言えば文武の祖母の持統天皇と母の元明天皇は文武天皇と聖武天皇のために天皇の権威をどこまでも高めるアイテムとして都(藤原京・平城京)、歴史書(古事記・日本書紀)、律令、銭をプレゼントしたのでした。そしてその政策の実行部隊となったのが中臣鎌足の子どもの藤原不比等でした。
土地政策
班田収授法のもとでの農民の暮らしは辛く、逃げる人が増えます。その様子は『万葉集』に収められた山上憶良の「貧窮問答歌」にあらわれています。逃げる人が多いと班田収授法はうまく回らなくなります。
元明天皇の娘の元正天皇の時代、太政官のトップの長屋王は田地の拡大をはかり、723年に三世一身法を出して新たな開墾地には3代に、古い池などを利用した場合は1代限りの私有を認めました。しかし天然痘の発生で日本が崩壊する中、聖武天皇と太政官の首班の橘諸兄は743年に墾田永年私財法をだし、開墾地の私有を本格的に認めました。
→723年:三世一身法(なにさ、3世くらいくれたって)=7(な)2(に)3(さ)
→743年:墾田永年私財法(名より身をとる墾田永年私財法)=7(な)4(よ)り3(み)
政権担当者の動き
元明天皇と藤原不比等
和同開珎、平城京の遷都(710年)
元正天皇と長屋王
班田収授法の立て直し→三世一身法(723年)
長屋王の変によって不比等の子の藤原四兄弟に殺される
聖武天皇と藤原四兄弟
藤原房前ら四兄弟の政治、天然痘の大流行で死去、人口の三分の一が死亡とも
聖武天皇と橘諸兄
世の中の立て直し
土地制度の見直し→墾田永年私財法(743年)
仏教、遷都(紫香楽宮(滋賀県信楽町)、恭仁京(京都府南部))
国分寺と国分尼寺の設立、東大寺と大仏→行基の登用
孝謙天皇と藤原仲麻呂
聖武天皇の死後、光明皇后の信頼を受けた藤原仲麻呂(恵美押勝)
称徳天皇と道鏡
藤原仲麻呂の乱を制圧して二度目の天皇になった称徳天皇(もと孝謙天皇)による僧侶の道鏡の登用
以上です。
覚えなければならない年号は三つです。
710年:平城京遷都
723年:三世一身法
743年:墾田永年私財法
あとはその年号の前かあとか、ですが、大仏造立の詔(みことのり)は墾田永年私財法とセットで企画されていますから墾田永年私財法のあとです。
人名です。
聖武天皇・行基の二人を理解していればあとはどうでもいいです。
天平文化
歴史の勉強は政治の流れをまずは押さえることです。歴史が苦手な人はこの政治の流れを理解したり、整理したりせず、行き当たりばったりに年号や事項を覚えるから覚えられないし、間違えるのです。まずは政治の流れを押さえて、その上でそれぞれの時代の文化を理解するようにしましょう。これは今からでも遅くありません。今までごちゃごちゃに詰め込んでいた知識がこの一連の記事を読むと整理されていきます。
文化方面で山上憶良、阿倍仲麻呂、鑑真をそれぞれ押さえましょう。何をやった人か知らない場合は各自調べておくこと。特に遣唐使については苦労した阿倍仲麻呂・鑑真を整理してしっかり理解しましょう。
寺院は東大寺と唐招提寺を覚えてください。
東大寺→国分寺の中心、大仏、正倉院(聖武天皇の遺品、校倉造)←ペルシャ(現在のイラン)や唐の品物、国際色豊かな天平文化
唐招提寺→鑑真のために立てられた寺
キリがいいので平安時代は別記事を立てます。
赤字の前後関係をしっかり理解しましょう。話はそれからです。この塾で社会の必要な学校は歴史の分野が得点源で、そこを大幅に落とすと厳しいので、この辺をしっかりと見ておきましょう。