清少納言が金太郎に殺されそうに?武士とは何か、を歴史研究者が説明しました

金太郎に殺されかけた清少納言

金太郎といえば足柄山で相撲を取っていた子どもです。一方清少納言は『枕草子』で有名な女官です。

清少納言は金太郎に殺されそうになったことがあります。

どう言うことでしょうか。

 

金太郎の物語の最後は「都でえらいお侍さんの家来になり、悪いものを次々とやっつけました」というものです。

 

その「悪い者」の中には酒呑童子という、都を襲って女性を拉致し、食い殺していた鬼も含まれますが、やっつけられた「悪い者」の中に清原致信(きよはらのむねのぶ)という人物がいました。清原致信は金太郎の主人の源頼光(みなもとのよりみつ・みなもとのらいこう)と戦い、殺されます。そしてそこに一人の坊主がいて、金太郎がそいつも殺そうとした瞬間、その坊主が「あたしは女だ!」と言って着物の裾をまくりあげたところ、ついているべきものが付いていなかったので金太郎も殺さずに引き上げました。それが清少納言の成れの果て、という話です。

 

この話、面白いのですが、もちろんほぼ作り話です。

 

致信事件の真相

清少納言の兄の清原致信が殺されたのは事実です。ただ源頼光ではなく、その弟の源頼親(みなもとのよりちか)です。

 

「誰やねん!」という声が聞こえてきます。頼親が清少納言の兄の致信を殺した、という話では誰も見向いてはくれません。そこで頼親の兄で酒呑童子説話でも知られる源頼光に助っ人を仰いだわけです。さらに頼光の郎等が金太郎とくれば面白さは倍増です。

 

この事件については藤原道長の日記『御堂関白記』(みどうかんぱくき)に乗せられています。1017年のことです。道長が摂政に就任した翌年です。1016年に摂政就任、ということで「とおいむ(1016)かしのワンマン摂政」という語呂合わせがあります。

1017年3月8日夕刻、太宰少監(だざいのしょうげん)の清原致信が源頼親の家来十数人に襲撃され、殺害されました。

なぜ致信は殺されなければならなかったのでしょうか。

それは大和守(大和国のトップ)を務めていた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と大和国の有力な武士であった源頼親がビジネスのことでもめてしまったのです。ちなみに頼親の叔父に当たります。さらに女流歌人和泉式部の夫でもあります。

保昌は家来であった致信に頼親の家来の当麻為頼(たぎまのためより)を殺害させます。その報復として頼親が致信を殺害しました。

 

武士とは何か

酒呑童子説話で有名な源頼光の弟はともかく、清少納言の兄ともあろう人物がヤクザの抗争のような襲撃事件を起こし、その報復で襲撃され、命を落とす、というのは現在の我々からすれば想像しづらいものです。実は「武士とは何か」という問題に対する一つの回答がこの事件にも見えます。

源頼親は清和源氏と呼ばれる下級貴族に属します。清和天皇の孫の経基王は皇族から離れて「源」の姓を賜り、武蔵守などの地方官を歴任します。その中で彼は勘違いから平将門の謀反を密告し、それがたまたま大当たりしたので出世して諸国の国司を歴任し、最後は鎮守府将軍にまで上り詰めます。

 

こういう国司(受領とも呼ばれます)を歴任する下級貴族の中でも平将門の乱やその少し前の関東の盗賊団の鎮圧、西国の藤原純友の乱の鎮圧に活躍した貴族の子孫は、地元の有力者と結びついて武力で朝廷に仕える「軍事貴族」と呼ばれる集団となります。桓武天皇の子孫の桓武平氏、藤原秀郷の子孫の秀郷流藤原氏、藤原利仁(芋粥の説話で有名です)の子孫の利仁流藤原氏、そして清和天皇の子孫の清和源氏といった人々です。

 

平安時代において下級の貴族のことを「士太夫」と呼びます。太夫とは四位・五位の人々のことであり、貴族の末席にかろうじて滑り込めるランクの家柄を指します。彼らは代々受け継がれた専門的技能を以って朝廷や大貴族に仕えていました。彼らのことを「士」と呼んでいます。大貴族に「侍ふ(さぶらふ)」ことから彼らを「侍(さむらい)」とも呼びます。彼らはその職能に応じて「文士」や「武士」と呼ばれていました。

 

つまり「武士」の本来の姿は、武力で朝廷や大貴族に奉仕する下級貴族だったのです。

 

金太郎は実在したのか

結論から言いますと、実在しません。「坂田金時」という人物も実在しません。

どうやら金太郎のモデルは藤原道長に仕えていた下毛野公時(しもつけののきんとき)のようです。下毛野氏は名前の通り下野国(現在の栃木県)出身で藤原氏に仕えた氏族です。

公時は道長の随身(ボディガード)を務めていました。その説話がいつの間にやら頼光四天王の坂田金時となり、やがて足柄山の金太郎に変わっていたと考えられています。

 

一方ダシにされた格好の清少納言ですが、彼女は生没年不詳で、仕えていた一条天皇中宮の定子が死没したのちは宮中を下がっており、藤原棟世という下級貴族と再婚して上東門院小馬命婦という娘を生んでいることが知られるのみです。鎌倉時代の『古事談』に殺されかけた話が出ています。

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