ザビエルはザビエルハゲではない!ということを力説しました
フランシスコ・ザビエルといえば何を思いつくでしょうか。キリスト教伝来でしょう。「いごよく(1549)広まるキリスト教」という語呂合わせを小学生のころにみました。その一方でザビエルハゲ、というイメージもあります。
ザビエルの像
ザビエルの像といえば下図の左の像が有名です。頭頂部を剃ったこの像のインパクトが強いため、頭頂部の薄いヘアスタイルをザビエルハゲと呼ぶこともあります。
ザビエル像のヘアスタイルや、上図右の宣教師のようなヘアスタイルを「トンスラ」と呼びます。
イエズス会
ザビエルがイエズス会の宣教師であることはよく知られています。イエズス会は宗教改革の最中にカトリック側からの運動として組織されました。イエズス会を組織したのはイグナティオ・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルら七人の修道士たちでした。彼らは宗教改革の中でカトリックの立て直しを目指し、教線をヨーロッパから世界中に広げていきます。
イエズス会の世界布教
折しも当時のヨーロッパ世界は大航海時代に入っていました。ポルトガルとスペインはいち早く世界制覇に向けて動き出しました。スペインはコロンブスが「発見」したアメリカ大陸を征服し、植民地化していきます。一方ポルトガルはアフリカ大陸の端っこの喜望峰を超えてインド洋に勢力圏を広げていきます。
これはデマルカシオンと呼ばれる、ポルトガルとスペインの間の世界分割条約に基づいていました。
ポルトガルの敬虔王ジョアン3世はイエズス会に海外布教を依頼、それに抜擢されたのがフランシスコ・ザビエルでした。
ザビエルのゴア・日本布教
ザビエルはナバラ王国という、スペインとフランスの国境地帯にあった小国の貴族の子で、シャビエル城の城主の子として生まれました。しかしナバラ王国はスペインに併合され、ザビエルはパリでリベラルアーツを学ぶ学生となります。その時彼と出会ったのが傷痍軍人であったイグナチオ・デ・ロヨラでした。ロヨラの影響を受けたザビエルは神学を学び、ロヨラとともにイエズス会を結成したことは前述した通りです。
ゴアに布教したザビエルはインドを瞬く間にイエズス会の布教地とします。さらに東に向かったザビエルは日本の運命を大きく変える出会いを成し遂げます。それは薩摩国の侍であったアンジロー(ヤジロー)との出会いでした。アンジローはかつて殺人を犯し、マラッカにまで逃亡してきたのです。彼を乗せてマラッカまで連れてきたジョルジュ・アルバレス船長はザビエルにアンジローを引き合わせます。
大方次のようなやりとりでもあったのでしょう。
アンジロー「船長、私、実は・・・」
アルバレス「どうした、アンジロー。なんでも話してごらん。」
アンジロー「実は・・・私は人を殺してしまったのです。そしてその罪の重さにおののいています。」
アルバレス「そうだな。いい人知ってるよ。そいつに会ってみな。気持ちが楽になるかもよ」
アルバレスとアンジロー、ザビエルの元に行く。
アルバレス「パードレ。この男はかつて人を殺して苦しんでいます。相談に乗ってやってください」
ザビエル「わかりました。私が話をうけたまわりましょう」
(以下略)
ということでアンジローは無事キリスト教信者になりました。
アンジローの聡明さに日本の可能性を見出したザビエルはアンジローとともに日本に向かいます。まずはアンジローの故郷の鹿児島に上陸し、島津貴久の協力のもと布教に励みますが、仏教徒との軋轢もあって京都を目指すことになります。国王に直接布教しようとしたのです。その途中、山口の大内義隆のもとに立ち寄ります。そこで義隆の男色を批判したために山口を追放されます。ちなみに当時の日本の偉いさんはほぼほぼゲイかバイセクシャルです。それがマジョリティだったわけで、ザビエルの行為は西洋の価値観の一方的な押し付けでしかありません。
京都に行ったザビエルは絶望に襲われたでしょう。インド総督とゴア司教の親書を携えて上京したザビエルですが、当時の室町幕府は足利義輝が重臣の細川晴元と和睦してなんとか一息ついたばかりで面会する余裕はありません。そして後奈良天皇は絶対に面会してくれません。ちなみに天皇は奈良時代末期の光仁天皇を最後に明治天皇まで外国人に面会したことはありません。後白河上皇が面会したことはありますが、非難轟々でした。
ザビエルは結局大内義隆に面会して布教の許可を受け、その後大分の大友宗麟のもとを訪れ、2年間の滞在の後、離日します。日本を攻略するには中国に布教しなければならない、と考えたザビエルは中国布教に乗り出しますが、四十六歳で病に倒れ、亡くなりました。
ザビエルは1619年に福者に列せられ、1622年には聖人となります。
ポルトガルのスペイン併合
ジョアン3世の死後、ポルトガルも大変なことになります。孫のセバスチャン国王は十字軍を志し、アフリカのモロッコへの侵攻を目指します。
ところがモロッコでも政変が起こり、当時のモロッコのサアド朝の四代スルタン(皇帝)のアブー・アブドゥラ・ムハンマド2世が叔父のアブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世にスルタン位を奪われ、ポルトガルのセバスチャン1世と連合してアルカセル・キビールの戦いを引き起こします。しかしムハンマド2世とセバスチャン1世は敗北を喫して二人とも戦死し、アル=マリク1世も戦死します。
セバスチャン1世は未婚だったため、大叔父のエンリケ1世が王位に就きますが、サアド朝への身代金の支払いなどで国家は破綻し、1580年にポルトガルはカスティーリャ王国を中心とした連合王国(スペイン)に加わることとなり、スペイン王フェリペ2世がポルトガル王も兼任することになりました。
フランシスコ会の日本到達
12世紀にアッシジのフランチェスコによって始められたフランシスコ会は、宗教改革の中でイエズス会と同様に海外の布教に力を入れます。コロンブスの熱心な支持者であったフランシスコ会は、スペインと結びついて新大陸への布教を進めていましたが、それまでアジア地域を拠点としてきたポルトガル併合によって教線をアジアにまで伸ばしてきました。ペドロ・バブチスタが来日し、豊臣秀吉に謁見して布教を始めますが、サンフェリペ事件を契機に始まった秀吉の26聖人の殉教で処刑され、殉教します。
1603年来日したルイス・ソテロは伊達政宗と親しくなり、支倉常長のメキシコ渡航などをお膳立てしますが、1624年に殉教しました。
有名なザビエル像の問題
我々は冒頭にかかげたザビエル像によってザビエルイメージを作られています。もっとはっきりといえば、「ザビエルハゲ」という言い方は冒頭のザビエル像に依拠しています。この作者不明のザビエル像は彼の列聖後に書かれた、とされており、死後70年以上経過した後に描かれています。従って実際のザビエルの姿を示したものではありません。更にいえばザビエルの属していたイエズス会はトンスラの習慣はなかった、と言われています。だとすれば、ザビエルのヘアスタイルはあのようなものではなかったはずです。
さらにいえば、トンスラと「ザビエルハゲ」はかなり違います。ザビエル像のトンスラはそもそもトンスラを正確に描いていません。トンスラはあんなに毛がありません。
なぜ日本の絵師がザビエルにトンスラを描いたのか、といえば、絵師が若かった頃に日本を席巻していた宣教師はトンスラをしていたフランシスコ会の宣教師だったのではないでしょうか。フランシスコ会の宣教師のヘアスタイルが頭に残っていた彼は、ザビエルの姿を描くときにトンスラをしっかり描いてしまった、という事情があったのでしょう。