歴史の大きな流れを押さえようー江戸時代

人気のない江戸時代です。でも入試では重要です。ここが好き、という人ははっきり言って有利です。

 

1江戸幕府の成立

1600年関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍になり江戸幕府が成立します。

関ヶ原の戦いで家康が一気に天下人になったか、というとそういうわけではなく、豊臣氏からすれば家臣の家康と家臣の三成の争いであるわけです。征夷大将軍になって、さらにその将軍職を徳川秀忠に譲り、さらに豊臣秀次の死後、秀吉が秀頼のために空けていた関白に九条兼孝を就任させることで豊臣家を追い詰めます。

1600年:関ヶ原の戦い

1603年:徳川家康、征夷大将軍に江戸幕府の成立

 

1615年、大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、家康の全国支配が完成します。秀忠が1615年に定めた武家諸法度によって大名は統制されます。

1615年:大坂の陣→豊臣氏滅亡

1615年:武家諸法度

 

大名は徳川家一門の親藩、昔から徳川氏に従っていた譜代、最近従った外様に分け、幕府の政治は親藩、あるいは譜代大名が担当しました。老中が四人置かれ、輪番で政務を担当しましたが、重大事には話し合いが行われ、それを超える非常時には大老がおかれました。大老になれるのは井伊氏、酒井氏、堀田氏でした。

三代目の徳川家光のころには江戸幕府のしくみも完成します。家光の時代の1635年参勤交代が制度化されます。

また鎖国が進むのもこの時代です。

 

1635年:武家諸法度に参勤交代が加えられる。

 

2 鎖国への歩み

最近は「鎖国はなかった」ということを研究者がしきりに言っています。私も言っています。30年ほどそれを口うるさく主張しています。しかし中学受験の場でそんなことを言っては混乱のもとです。そんなことを言う奴は無視しましょう。

 

1624年、スペイン船の来航が禁止されます。フランシスコ会と伊達政宗の近すぎる関係も警戒されたかもしれません。政宗もそこはおとなしく従います。いい面の皮なのは政宗に命じられてメキシコまで行ったのに冷遇された支倉常長と、政宗を頼って仙台に逃げてきたイエズス会宣教師たちです。

 

1635年、日本人の海外渡航と帰国を禁止します。

 

1637年、天草・島原農民一揆が起こります。基本的には領主のひどい支配に抵抗した農民一揆だったのですが、そこに天草四郎らのキリシタンも加わって大騒ぎになります。結局領主は切腹すら許されず、死罪という極めて重い処分が科されました。

この結果、キリシタンへの統制は厳しくなり、踏み絵寺請制度が作られ、キリシタンは隠れキリシタンとなっていきます。

 

1639年にはポルトガル船の来航が禁止になり、鎖国が完成します。その後は長崎の出島でオランダと、同じく長崎の唐人屋敷で明・清と通商関係を結ぶことになります。他には対馬を通じて朝鮮との国交が開かれ、将軍の代替わりごとに通信使がやってきました。朝鮮の文化を求めて日本中から知識人が朝鮮通信使に会いにきたと言われています。

オランダが残ったのは、オランダがプロテスタントの国であったことが大きいです。オランダの宣伝文句として「うちはキリスト教なんか布教しまへん。うちは日本さんとええ商売ができたら、それでよろしいですねん」とかなんとか言って取り入ったわけです。

 

3 徳川綱吉と新井白石の政治

5代目将軍に就任した徳川綱吉はそれまでの武断政治(武力で抑圧する政治)を改め文治政治(文化で教え導く政治)に切り替えます。それまで日本人はすぐに刀を抜いて殺しあっていました。「ナメられたら殺す」の世界です。「1日一回は生首を見ないと気分がすぐれない」(南朝の忠臣結城宗広氏談)人もいるくらいです。

綱吉は「それではいかん。儒学をしっかりやらせて日本人を文明人にせねばならない」と考えます。当時の文明は中国です。綱吉はなんと古典中国語で側近の柳沢吉保やその家来の荻生徂徠と議論をしていたそうです。

そのような日々、綱吉は江戸市中に出るときに、将軍に失礼がないように犬が繋がれていることを聞いてそれには及ばない、と言ったそうです。そこから生類憐みの令が始まりました。

綱吉の時代は元禄という年号が長く使われていました。そのためこの時代の文化を元禄文化といいます。元禄文化の代表的な人物は近松門左衛門・井原西鶴・菱川師宣・松尾芭蕉です。あとは大体化政文化です。

 

綱吉の時代には貨幣の質を落とす、ということが行われ、インフレーションが起こりました。

 

新井白石による正徳の治は綱吉の時代を見直すことから始まります。貨幣の質を元に戻し、長崎貿易を制限します。長崎貿易で輸入超過に陥り、日本から金や銀が流出していたからです。生類憐みの令も廃止しました。しかし効果は上がらず、徳川吉宗によって解任されます。

 

4 3大改革

享保の改革

8代将軍徳川吉宗は幕府の財政の立て直しに着手します。これを当時の年号をとって享保の改革といいます。

年貢の税率を40%から50%に引き上げ、それまでの取れ高に左右される方式から、数年間の平均を元に算出する方法に変えました。これによって幕府の税収は安定します。さらに米の値段を安定させようと苦心します。彼が「八木将軍」とからかわれたのはそのためです。ちなみに「八木(はちぼく)」は「米」の旧字が「八木」を縦に書いた形に似ているからです。

他に新田開発や大名に米を献上させる上米の制も実施しています。上米の代わりに参勤交代を緩めています。

 

政治改革としては目安箱の設置があります。直接意見を聞こうというもので、小石川養生所の整備などはそれが生かされたものです。他には青木昆陽に命じてさつまいもの栽培を研究させています。

また裁判のために公事方御定書をも制定しています。

 

田沼意次の政治

徳川吉宗の側用人から老中にまでのし上がった田沼意次は、大商人の力を利用しました。収入を増やすために印旛沼の干拓、あるいは蝦夷地の開拓を企画します。それを行うのが大商人と言うわけです。そのために株仲間を公認します。株仲間は株を買ったもので組合を作って、そこで値段などを決めることです。現在はカルテルといい、独占禁止法で禁止されています。意次の狙いは、株仲間で儲けた商人から税金を多く取ろうというのです。しかし自分に利益をもたらしてくれる一部の特権層だけに利益を誘導する政治のあり方は、壊れていない人間ならば反発します。折しも天明の飢饉によって食料不足になり、物価が上がってしまって百姓一揆や打ちこわしが多発し、田沼意次は老中を解任されます。

 

寛政の改革

老中についた松平定信寛政の改革に取り掛かります。

飢饉対策として米を蓄えさせる囲米の制、旗本らの借金を帳消しにする棄捐令(きえんれい)、湯島聖堂で行う学問を朱子学に限定する寛政異学の禁などが主な政策です。他に海防策を唱えた林子平も処罰されています。

 

世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし 文武というて 夜も寝られず

白河の 清きに魚の 住みかねて もとのにごりの 田沼恋しき(定信は白河藩主)

 

というような狂歌も作られました。これは定信を風刺したものです。

 

化政文化

定信の失脚後はしばらくは徳川家斉の政治が続きます。このころの幕府は急速に緩んでしまいますが、それもあってか江戸を中心に文化が栄えます。当時の年号の「文化」「文政」の後ろの一字ずつをとって「化政文化」と言います。十返舎一九・滝沢馬琴・与謝蕪村・小林一茶といった文学、葛飾北斎・歌川広重・喜多川歌麿・東洲斎写楽といった浮世絵師などは大体化政文化です。

 

天保の改革

1837年、大坂町奉行所の与力であった大塩平八郎が大坂で打ちこわしの先頭に立ちます。大塩平八郎の乱といいます。そのまんまですね。今で言えば大阪府警本部長がいきなり大坂市中で大砲をぶっ放して反乱を起こすようなものです。

1840年、日本に衝撃的な知らせが入ってきました。清がイギリスに敗北しました。アヘン戦争と言います。中学校ではこのアヘン戦争に至るインドーイギリスー清の三角貿易は基本中の基本ですが、今はどうでもいいです。

この二つの出来事に危機感を覚えた老中の水野忠邦天保の改革を始めます。

農村復興のために農村から都市に来ていた出稼ぎの農民を強制的に農村に返す人返し令株仲間の解散、江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府の直轄地にする上知令など矢継ぎ早に幕府の立て直しを図りましたが、諸大名の反発を受けて2年で失脚しました。

 

5 開国と幕府の滅亡

開国

1853年、アメリカのマシュー・C・ペリーが率いる4隻の黒船浦賀(神奈川県)に来航しました。ペリーは開国を要求します。

1854年、再び来航したペリーの圧力に負けた日本は日米和親条約を結びます。その結果下田(静岡県)と函館(北海道)が開港となります。基本的にはペリーが求めたのは捕鯨船の寄港地です。

 

日米修好通商条約と安政の大獄

しかし来日したタウンゼント・ハリスは通商関係を要求し、朝廷は幕府に対して攘夷を要求してきました。背景には朝廷の権力を独占してきた摂関家に対するそれ以外の公家の不満があり、摂関家とバックにいる幕府に対する不満があったからです。そのころ幕府でも将軍徳川家定の後をめぐって争いがあり、譜代中心の政治を目指す井伊直弼らと大胆な幕政改革を目指す徳川慶喜の動きがあり、最終的に勝利した井伊直弼は天皇の許可を受けずに1858年日米修好通商条約を結びます。

開港地は神奈川・新潟・函館・兵庫・長崎と決められ、治外法権を認める、関税自主権がない、という不平等条約でした。同じ内容の条約をアメリカ以外にイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだため「安政の五カ国条約」ともいいます。

井伊直弼のやり方は批判を受けますが、それに対して直弼は反対派を処罰します。吉田松陰や橋本左内らは処刑され、また水戸藩主の徳川斉昭や徳川慶喜らは謹慎処分となります。これを安政の大獄といいます。これに水戸藩は激怒し、浪士は1860年、直弼を桜田門外で暗殺します。桜田門外の変といいます。

 

江戸幕府の滅亡

貿易によって日本は物が足りなくなって幕府及び外国に対する不満が高まります。尊王攘夷運動といいます。しかし長州藩は外国船を砲撃して返り討ちにあい、幕府からも朝廷からも見放されて崩壊の危機にさらされます。一方薩摩は生麦事件から薩英戦争に流れ込んでボコボコにされます。

薩摩藩も長州藩もさすがに理解しました。鎖国は無理、と。尊王攘夷のうちの攘夷をやめて尊王倒幕としようと考えます。イギリスのトーマス・グラバーや坂本龍馬が動き、対立してきた長州藩と薩摩藩は1866年、薩長同盟を組みました。この時の中心人物が薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通、そして長州藩の木戸孝允でした。

イギリスをバックにした薩長に対し、新たに将軍になった徳川慶喜はフランスのナポレオン3世をバックに立て直しを図りますが、フランスはプロイセンに敗北して没落します。徳川慶喜は大政奉還というウルトラCで逃げ切りを図ります。朝廷に政権を返上しても一番領地を持ち、一番高い地位にあるのは慶喜だから、慶喜は新政府でも重要な地位を占めることができるからです。しかしそれを嫌った新政府は慶喜に対し「官職を辞めて領地を全部差し出せ」と挑発します。戊辰戦争が起こりますが、幕府は滅びてしまいました。

 

ここで覚えておくべき年は以下の通りとします。

1603年:江戸幕府

1615年:豊臣家滅亡と武家諸法度

1635年:参勤交代の制度化

1639年:鎖国の完成

1853年:ペリー来航

1867年:江戸幕府滅亡

 

あとは三大改革の順番と誰がやったか、ということをしっかり理解すれば大体大丈夫かと思います。

以上、確実に点を取ることが要求される歴史前近代(古代〜江戸時代)編の勉強のための教材を終わります。この流れを押さえた上で文化や生活などの細かい点を押さえていくべきです。

 

近代以降についてはいろいろ難しいところもありますので、限定公開の形でそのうちに公開したいと思います。

 

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