歴史の大きな流れを押さえようー安土桃山時代

安土桃山時代、別名織豊時代といいます。どちらも要するに織田信長と豊臣秀吉の時代ということです。

 

中学校の社会の先生には戦国時代マニアが多いのではないか、と疑っています。桶狭間と長篠の戦いの場所など知ったところでどうしたんだ、というのが私の考えです。しかしそういうところを聞いてくることがあります。

 

まずは大きな流れを押さえましょう。

 

戦国時代は大きな画期があります。どこだと思いますか?

ちょっとだけ考えてください。

 

1 鉄砲とキリスト教伝来

やはり1543年鉄砲伝来でしょう。種子島にやってきた倭寇の船に乗船していたポルトガル人が持っていた鉄砲によって戦国日本は大きく変わります。

 

倭寇といっても王直という中国南部の貿易者です。中国南部を拠点にマカオやマラッカ、平戸や朝鮮半島にも貿易ルートを伸ばした大商人ですが、明は民間の貿易を禁止していましたから、武装しており、しばしば明の海軍とも戦っていました。明は彼らを「倭寇」と呼んでいましたが、彼らの「倭」なところは日本列島にも寄港地を持っているということと、彼らの有力な取引先の一つが九州の諸大名だった、ということくらいです。

 

鉄砲は瞬く間に国産化に成功し、大量生産がなされ、しばらくするとは実戦に投入されています。大量に鉄砲を揃えると金はかかりますが、ものすごい威力を発揮します。足軽による集団戦に移行し、城もそれまでの山城から平地に建てられるようになります。

1543年:鉄砲伝来←種子島(鹿児島県)にきたポルトガル人(以後予算(いごよさん)増える鉄砲伝来)

 

もう一つの西洋の衝撃が1549年のキリスト教の伝来です。フランシスコ・ザビエル(現在のスペイン出身)が鹿児島にやってきてキリスト教を伝えて以降、そのバックにいるポルトガルとの貿易の利益に目をつけた西国の大名によってキリスト教が受容されていきます。最初にキリシタン大名になったのは肥前国の大村純忠です。その後、大友宗麟、有馬晴信がキリシタン大名になります。彼らがのちに天正遣欧少年使節を派遣することになります。

1549年:キリスト教伝来フランシスコ・ザビエル(以後よく広まる鉄砲伝来)

 

2 織田信長の登場

織田信長は間違いなく戦国日本を変えた人物です。

彼の出世の始まりは、1560年今川義元を倒した桶狭間の戦いです。駿河・遠江両国の戦国大名だった今川義元は三河国をめぐって尾張国の戦国大名織田信秀・信長親子と戦っており、決着をつけるために尾張国に侵入したところを信長にやられました。海道一の弓取り(東海道筋最強の武将)と言われた今川義元を倒した信長の名前は一気に上がりました。

1560年:桶狭間の戦い織田信長今川義元を破る。

 

信長は岐阜を手に入れたころから室町幕府の再興を考えます。室町幕府の末期には細川家の家来の三好氏が実権を握って室町将軍を追放したりしていました。さらに三好氏の家来が足利義輝を殺して新たに足利義栄を将軍に立てるなど、室町幕府はかなりボロボロでした。信長は自分を頼ってきた足利義昭を保護すると彼を将軍につけるべく京都の制圧を図ります、それが「天下布武」です。

 

室町幕府を再興した信長ですが、朝倉義景・浅井長政が信長と義昭に抵抗し、信長は浅井・朝倉を支持した比叡山延暦寺を焼き討ちします。しかし信長との同盟を破棄して三方ヶ原に攻め込んできた武田信玄に徳川家康・織田信長連合軍は敗北します。それを見て足利義昭は信長を見限って信長包囲網に加わりますが、信玄が急死したこともあって信長包囲網は破綻し、足利義昭は追放されてしまいます。1573年、室町幕府は滅亡しました。

1573年:室町幕府滅亡足利義昭を追放

 

1575年に武田信玄の子の武田勝頼が再度攻め込んできましたが、今度は信長自身が大軍を率いて長篠の戦いが行われました。武田軍の騎馬軍団に信長の鉄砲の三段撃ちがてきめんに効いて大勝利、という話がまことしやかに流れていますが、現在では武田の騎馬軍団も信長の鉄砲三段撃ちも疑問視されています。ただ信長が大量の鉄砲を持ち込み、武田軍を大敗北に持ち込んだことだけは事実です。

1575年:長篠の戦い織田信長武田勝頼を破る、鉄砲の活用

 

1576年には近江国に安土城を築き、楽市楽座を導入して商業を発展させました。これもいろいろ議論がありますが省略します。キリスト教の保護を行い、一方で一向宗には徹底した弾圧を加えました。ただ信長が無宗教であったわけではなく、従順な仏教にはしっかりと保護をしています。彼自身は日蓮宗の本能寺の信徒でした。

1576年:安土城(滋賀県)

 

1582年、毛利攻めに向かう途中、京都の本能寺に宿泊していた信長は家臣の明智光秀によって殺害されます。本能寺の変です。

1582年:本能寺の変織田信長明智光秀に討たれる

 

3 豊臣秀吉

明智光秀を倒して信長の後継者に名乗りを上げたのは羽柴秀吉でした。1583年には大坂城を築き、さらに関白太政大臣となって豊臣秀吉と名乗り、豊臣政権を作り上げました。

 

1590年、国内での戦争を禁止した秀吉の命令に背いたとして小田原の北条氏を滅ぼし、それに恐れをなした伊達政宗を従わせ、従わなかった東北や東国の大名をつぶして秀吉による全国統一が完成しました。

1590年:小田原北条氏滅亡→秀吉による全国統一

 

明を含めた世界統一を考えた秀吉は朝鮮に道案内を命じますが、断られたため、まずは朝鮮を攻めることにしました。1592年の文禄の役1597年の慶長の役です。結局失敗に終わり、慶長の役が泥沼化するなかで秀吉は死去し、豊臣政権は没落し始めました。

1592年:文禄の役

1597年:慶長の役

 

秀吉の政策の特徴

キリシタンと南蛮貿易

秀吉は初めは信長と同じくキリシタン保護政策をとりますが、のちにキリシタン禁止に転換します。その一方で貿易は奨励したのでキリシタン禁令はそれほどの実態を持ちませんでした。しかし26聖人殉教事件のインパクトは大きいものでした。

南蛮貿易では何しろ火薬が入ってきます。ポルトガル語由来のものにコンペイトウ、天ぷら、タバコ、かるた、カステラがあります。

 

兵農分離

秀吉は太閤検地を行い、土地の台帳を作り、荘園制を完全に無くしました。これによって農民は土地に縛り付けられることとなります。逆に言えば農民は土地の保有を保証された、ということでもあります。

また刀狩を行い、農民の武装を禁止しました。とは言っても護身用に刀や鉄砲は実は所持しています。武器の使用を規制し、武士と農民の身分差をはっきりさせるのが目的であると考えられています。

 

五大老と五奉行

ここは覚える必要はありませんが、一応書いておきます。

豊臣政権の中核を担ったのが五人の大名と五人の官僚でした。

五大老は徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家

五奉行は石田三成・浅野長政・長束正家・前田玄以・増田長盛

 

秀吉の死後、徳川家康を中心とする勢力と石田三成を中心とする勢力が争います。1600年、関ヶ原の戦いです。石田三成は毛利輝元を抱き込み、打倒徳川家康を目指します。一方、毛利家の滅亡を危惧する吉川広家は西軍を裏切ることで毛利家を救うことを決意します。三成が憎い黒田長政は小早川秀秋を裏切らせることに成功します。当日、秀秋の裏切りを予見していた大谷刑部は秀秋を邪魔するように陣をとりますが、周りの武将にまで裏切られ、戦死し、関ヶ原の戦いは石田三成の無残な負けとなりました。

1600年:関ヶ原の戦い徳川家康の東軍石田三成の西軍が激突し、徳川家康の天下になる

 

この項目は覚えるべき点が多いのが困ったものですが、最低限大きな流れとしては以下をあげたいと思います。

 

1543年:鉄砲伝来

1573年:室町幕府滅亡

1582年:本能寺の変

1590年:秀吉の全国統一

1600年:関ヶ原の戦い

フォローする