歴史の大きな流れを押さえようー室町時代

室町時代です。足利尊氏が幕府を開いてから、織田信長に滅ぼされるまでですが、応仁の乱以降は戦国時代と呼ばれます。また南北朝合体までは南北朝時代とも呼ばれます。そんなにややこしい時代ではないので、あっさりいきましょう。ただ村落の生活が出てくるのでその辺を少し補ってやる必要があります。

1 南北朝時代

後醍醐天皇は幕府を滅ぼすと翌年の1334年から建武の新政と呼ばれる天皇主導の政治を行います。天皇・公家中心の政治と言われ、それに武士が不満を持ったため、足利尊氏(後醍醐の本名の尊治の一字をもらって改名)が挙兵した、という流れでOKです。

足利尊氏に負けた後醍醐天皇1336年に吉野(奈良県)に逃げて南朝を作り、一方尊氏は京都に新たな天皇を立てて北朝を作ります。両者の対立が60年続いたので南北朝時代と呼ばれます。

 

1338年、尊氏は征夷大将軍に任命され、室町幕府が名実ともにスタートします。室町幕府はその出発点が長引く戦乱の中でしたから、守護に大きな権限を与えていたために、守護は従来の軍事・警察権のみならず、守護が自らの任国を自分の領地のようにしてしまいます。このような守護を守護大名といいます。

1336年:南北朝成立

1338年:足利尊氏、征夷大将軍に、室町幕府を開く

 

足利一門の斯波氏、細川氏・畠山氏が代わり番こで管領に就任し、将軍を補佐します。しかし鎌倉幕府の執権と異なるのは、六波羅探題のような地方の機関を管領は支配していないところです。京都に幕府が置かれたので鎌倉には鎌倉府が置かれ、足利氏の分家が代々鎌倉公方を務めていました。

 

3代将軍足利義満のころにようやく幕府は落ち着き、1392年には南北朝合体を成し遂げます。義満は室町通沿いに華やかな御所、通称「花の御所」を作り、また出家後の自らの政治の中心地として北山の地に金閣を含む北山殿を作ります。北山殿は義満の死後、鹿苑寺という寺になり、金閣はその場に残りました。この時期の文化を北山文化といいます。かなり中国色の強い文化ですが、能楽では世阿弥が出てくるのもそのころです。

1392年:南北朝合体←足利義満

 

2 室町時代

義満による南北朝合体から応仁の乱までのこの時期の大きなトピックといえば、日明貿易でしょう。

 

元が滅びて明に変わりましたが、当時のアジア諸国の悩みは倭寇と呼ばれる海賊行為でした。必ずしも日本人とは限らないのですが、一応面倒臭いのでここでは日本人による海賊行為ということにします。

 

義満は貿易による利益に目をつけ、明に貢物を贈ることでぼろ儲けを企みます。一方明はクビライすら失敗した日本征服が一切の武力を用いずに実現したことを喜びます。ウィンウィンの関係です。倭寇と区別するために勘合と呼ばれる渡航・貿易許可証を持っていました。ちなみに勘合の大きさは縦80cm以上、横1m以上の大きさです。

日本からは銅、刀剣、硫黄などが輸出され、明からは銅銭、絹織物、香料などが輸入されていました。

将軍が守護大名に暗殺されるという事件が起こり、幕府は揺らいでいきます。8代将軍となった足利義政は守護大名の後継争いをうまく処理できず、自らもややこしい後継者争いを作り出してしまい、1467年には細川勝元山名宗全の戦いを引き起こしてしまいます。これが応仁の乱です。11年間も続いた戦乱によって戦場になった京都は荒れ果て、京都に住んでいた守護大名も自らの国に下っていきます。こうして戦国時代に入っていきます。

 

1467年:応仁の乱←足利義政・細川勝元・山名宗全

 

義政は東山の地に銀閣東求堂同仁斎を含む東山殿を造営します。義政の死後寺に改められ、慈照寺となります。銀閣は有名な建物ですが、東求堂同仁斎書院造と呼ばれる、今日の和風建築の基礎となった建物です。畳敷きや床の間、違い棚など、今日の和風建築に見られる意匠が凝らされています。

 

3 下克上の時代

この時期には農業が発達しました。鎌倉時代には近畿だけだった二毛作が全国に広がり、水車の使用によって水田が多く造られるようになります。水車は低いところにある水をすくい上げることができるからです。それによって力を蓄えた村は「」と呼ばれる自治組織を作り、「寄合」という話し合いを行って荘園制はいよいよなくなっていきます。

 

またこの時代は一揆がしばしば起こります。

1428年には4代将軍足利義持が死去し、6代将軍足利義教が就任し、また称光天皇が亡くなって後花園天皇に代わるという代替わりの年でした。そのような中、代替わりの徳政を求めて京都を中心とした地域の民衆が立ち上がったのが正長土一揆です。この時は幕府は鎮圧しましたが、その後は土一揆の要求に幕府が屈することもあり、幕府・朝廷の力は衰えていきます。

 

応仁の乱が終わったのちも戦い続けた畠山政長と畠山義就ですが、この両者に1485年に立ち退きを求めた山城国の国人のよる一揆が山城国一揆です。その後8年間国人による自治が展開しました。

 

1488年加賀国(石川県)では一向宗と呼ばれる浄土真宗の門徒による一向一揆が起こり、守護大名を滅ぼして100年間、織田信長に倒されるまで100年間「百姓の持ちたる国」として存続しました。

 

1428年:正長土一揆→京都付近の土民、徳政を求める

1485年:山城国一揆→山城国南部の国人、畠山氏の退去と8年間の自治

1488年:加賀一向一揆→加賀国(石川県)の一向宗門徒による守護滅亡、100年間の自治

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