室町時代の村・都市

昨日の続きです。

室町時代の産業・村・都市・一揆

 

目次

2 室町時代の村

3 室町時代の都市

4 室町時代の一揆

 

2 室町時代の村

室町時代には村全体で結合を強めた農村が多くなってきました。自分たちで年貢を集め、納める(地下請)とか、用水などについての決まりを定めたり、自分たちでその決まりへの罰則を定め、さらには刑罰を執行したりしました(地下検断・自検断)。こういう村の結合を惣(そう)と呼んでいます。惣での意思決定は寄合と呼ばれる話し合いで決定しました。おわり。

 

と、まあこれくらい押さえておけば室町時代の村のことは一応大丈夫です。「惣」「寄合」などを中学受験では、さらにもう少し高度になると「地下請(じげうけ)」「自検断」などを覚えていけばいいでしょう。

 

惣の指導に当たったのはおとな(乙名・長・年寄)と呼ばれる指導者で、一定の通過儀礼を経た年長者でした。それ以外に沙汰人、番頭という指導者もおり、多くは世襲制であって、惣の構成メンバーはそれほど平等な関係であったわけではありません。

 

さらに惣でしばしば言われるのが、刑罰の厳しさです。盗みに対しては死刑を含む厳しい制裁が科されましたが、それはしばしば惣の中でも弱者にとっては非常に厳しいものとなっていたことなどが指摘されています。

 

3 室町時代の都市

このころの都市といえば京都・鎌倉・奈良が有名です。他には堺・博多などにも都市が作られており、このころには港町が各地にできていました。また宿場町・門前町なども作られていきました。

都市の中には惣と同じく自治組織を持つ都市が出てきます。町衆による自治を確立し、応仁の乱で衰退した祇園会を復興させ、今日の祇園祭の基礎を作っていった京都の町衆や、堺で会合衆と呼ばれる代表者を選んで自治を行ったことを覚えておけばいいでしょう。

 

当時は日本海側が海運のメインルートであるため、日本海側に多く都市が形成されています。十三湊は北アジア方面に開かれた交易港で、室町時代に没落後は松前や函館などにその機能が移転しています。小浜は東南アジアからの使者もやってきた国際的な交易港で、博多や下関も朝鮮や明との交易には欠かせない国際交易港でした。瀬戸内海は海運の大動脈で、兵庫・堺などの港町が形成されていました。広島県の草戸千軒もそういう都市の一つです。

 

こういう遠隔地を結ぶために拠点には問(とい)という運送や商品の販売などを行う業者が発達しました。そして消費地では同業者の組合である座を作り、その権利を上級権力に守ってもらっていました。

 

一つ例を挙げますと、鮭の干物や昆布は北海道で加工されて本州に入ってきました。それを京都で売るためには座があり、その座は鮭と昆布を売る権利を自分たちだけで占めるために権力者に年間五千万円相当のお金を払っていました。ということは、相当な鮭が入っていたことが分かります。室町時代にその座から金の支払いを受けていたのは伏見宮家という皇族でした。当時の貴族の収入は、こういう形で得られていました。その座をなくしたのがいわゆる「楽市・楽座」です。

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