室町幕府の仕組み

室町幕府の仕組みについて説明します。

 

と言ってもよくわからんところが多いのが現状です。

 

だいたい中学受験向けの参考書や学校の教科書に載っている幕府の組織図は大事なところが抜け落ちているもので、あれでは何もわからん、というのが現状です。大学受験ではそれでは対応できないので、その辺はかなり詳しくなっていますが、幕府機構で難しいのは、まずそもそも幕府の時期によって全然違うこと、もう一つは非公式の組織が多く、その実態は明らかではないことです。

 

目次

1 将軍を補佐する三管領と四職とその他

2 政所の重要性

3 果たして機能していたのか評定衆と引付

4 奉公衆と奉行人

5 関東を半ば独立して支配した鎌倉府

6 地方を統治した九州探題・奥州探題・羽州探題

7 守護と地頭の関係

 

1 将軍を補佐する三管領と四職とその他

将軍を補佐するものの役職名で幕府の区別はだいたいつきます。鎌倉幕府は執権、室町幕府は管領、江戸幕府は老中です。

室町幕府の管領は足利一門の有力者の細川・畠山・斯波の三家が交代で就任し、将軍の補佐を行っていました。そして京都の警備や刑事裁判を担当した侍所所司は四職と呼ばれた有力大名である山名・一色・京極・赤松の四家が交代で就任しました。

実は室町幕府の最大の特徴は、公的に上にいるものに権力がある、というわけではない、ということです。将軍にしても足利義持が将軍になっても足利義満は実権をにぎっていましたし、足利義量が将軍になっても足利義持は変わらず権力を持っていました。

管領にしても同じことが言えます。足利義満が死んだ時の管領は斯波義重ですが、義持を後継者に据えたのは管領の父の斯波義将です。もう一つ重要なのは、斯波義将はあくまでも諸大名と話し合った上で決定している、ということです。室町幕府の最高意思決定は諸大名の話し合いで決まります。その構成メンバーは三管領と四職に土岐氏を加えたメンバーです。しかも彼らが全員参加するわけではなかったようで、その中の有力者が将軍から相談されて答える、という形になっています。

 

この組織はあくまでも私的というか非公式という扱いなので公的な文書などには出てきません。今日我々がこの会議の中身を知ることができるのは『満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)』という、醍醐寺の坊さんの日記が残されているからです。この日記を書いた満済という坊さんは醍醐寺(だいごじ)の三宝院門跡(さんぽういんもんぜき)でした。彼は歴代将軍や諸大名から信頼され、こういう会議の世話役というか、議長というか、調整役というか、非常に重要な仕事を任されていました。

 

満済がこういう場に出てくるようになったころの主要メンバーは細川満元・斯波義重・畠山満家・山名時熙・赤松義則でした。京極・一色というのは実はこの会議にはほぼ出席しません。四職と言っても少し内部に格差があったようです。このうちの二人が日常的には相談を受け、重要な案件になるとどんどん人が増えていく、という仕組みだったようです。

 

足利義教のころになると管領の邸に集まるのではなく、義教が個別に使者を出して相談する形になります。将軍が一生懸命に調整するのですが、それを一番身近で補佐したのが例の満済だったわけです。

 

義持期の末から義教期の前半にかけてよく相談を受けたのが畠山満家と山名時熙、義教末期になると細川持之と赤松満祐でした。しかし義教の中頃に斯波義淳、畠山満家、山名時熙、満済が相次いで死去すると義教は暴走し始めて最後は赤松満祐に殺されてしまいます。大名の合議制は破綻し、大名が自分の主張をそのまま幕府にぶつける形になり、幕府は迷走していきます。

 

2 政所の重要性

室町幕府の政所については「将軍家の財政」とか説明されます。これでは政所はものすごくしょぼい、という印象を持ってしまいます。なんせ鎌倉幕府の政所は「政治全般」ですからものすごく権限が縮小するように感じられます。これ、間違いです。財政を担当するから、他のことも支配できるのです。特に室町幕府は直轄地が少なく、収入を商人やらお寺に頼っています。財政はものすごく重要なのです。

 

政所執事は代々伊勢氏という家が担当してきました。特に義政の時期の伊勢貞親は有名です。貞親のあとは伊勢貞宗・伊勢貞陸など、くずれゆく幕府を必死に支えた人々の名前が続きます。

 

有力大名の合議制がつぶれた後、幕府政治を支えたのは伊勢貞親でした。将軍家の養育、財政、宗教など重要なことを押さえるだけでなく、様々な奉行人を指揮して外交や地方とのやりとりなども伊勢氏が担当していました。伊勢貞親は応仁の乱の直前に義政の弟の義視を除こうとして失敗しています。小田原を支配した北条氏の先祖の北条早雲はもともとは伊勢貞親の甥に当たります(貞親の妹の子で一門の伊勢盛定の子)。伊勢新九郎盛時というのが彼の本名です。

 

3 果たして機能していたのか評定衆と引付

大学入試向けの参考書には出てきますが、そもそも機能していません。参考書にもはっきり書いてありました。「評定衆や引付もおかれたが、奉行人の働きが盛んになるにつれ、名のみの存在となった」(『詳説日本史研究』山川出版社)。忘れちゃって大丈夫だと思います。南北朝時代にはまだ存在していましたが。

4 奉公衆と奉行人

奉公衆は将軍の直属の武力です。と言っても室町幕府の軍事力は基本的に守護大名の武力に頼っています。義持の時代には特に畠山満家と大内盛見が頼りにされていました。しかし大内盛見が少弐氏との戦いで戦死し、大内氏内部で争いが起こったのをきっかけに守護大名の一門や、有力な国人を登用するようになります。

この奉公衆は諸国に散らばる将軍の直轄地の代官となり、諸国の大名への牽制ともなりました。畠山庶流や大館氏などが知られています。

奉行人は政所で様々な実務に携わる人です。政所執事代の蜷川(にながわ)氏がまずいます。一休さんに出てくる「蜷川新右衛門」というのはこの家です。アニメの新右衛門さんは蜷川親当(ちかまさ)をモデルにしています。飯尾氏、松田氏、などがいます。

 

5 関東を半ば独立して支配した鎌倉府

足利尊氏の末っ子の足利基氏を鎌倉に設置したことに始まります。その子孫は代々室町将軍家に対してライバル心をのぞかせ、つねに室町将軍家に取って代わろうとします。結果、四代目の足利持氏の時に六代将軍足利義教に滅ぼされますが、義教の死後に持氏の子の成氏(しげうじ)によって復活されます。しかし足利義政と対立し、古河(栃木県)に逃げたことで古河公方と呼ばれるようになります。一方義政が送り込んだ義政の兄の政知は堀越(静岡県)に入り、堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれるようになります。

堀越公方は政知の死後、あとを継いだ茶々丸が自分の継母を殺したため、その継母の子である十一代将軍足利義澄の命令を受けた奉公衆伊勢盛時によって滅ぼされます。その後伊勢盛時は自立し、彼の姉の嫁ぎ先である今川氏との同盟関係を強めて関東を支配する戦国大名北条氏の基礎を築きます。

 

6 地方を統治した九州探題・奥州探題・羽州探題

室町幕府は日本を一体化して支配するのは無理、と考えて、畿内近国と呼ばれた地域と中部地方・四国地方・中国地方を支配し、それ以外は大胆に権限を譲って支配を任せました。それぞれの地域には足利一門をトップにする探題が設置されました。しかしこの探題は軍事指揮権及び行政権の一部のみを与えられ、土地を支配する権限は与えられなかったためにその力は弱く、下に支えられる形になってしまいます。九州探題は渋川氏がつきますが、大内氏によって担ぎ上げられる存在であり、奥州探題と羽州探題は斯波氏一門の大崎氏と最上氏がそれぞれつきますが、戦国大名化した最上氏はとにかく、大崎氏は小さな領主となってしまいました。

 

7 守護と地頭の関係

鎌倉時代の守護はあくまでも軍事指揮権など限られた権限しか持たず、従って組織図でも守護と地頭は対等であるかのように書かれています。それに対して室町幕府の守護は行政権を持つようになり、国内の武士を支配下に組み込むようになっていきます。だから守護と地頭が上下関係で書かれます。この辺の違いを押さえておくと、管領と執権を隠した状態の組織図を見せ、鎌倉幕府か室町幕府かを問う問題にも対応できます。

 

大学受験生向けに少しだけ詳しく説明しておきますと、南北朝内乱の中で地方の武士を組織するために拡大された権限が、田畑をめぐる争いに介入できる「使節遵行権」が付与されました。

また軍事費を出すために荘園・公領の年貢の半分を守護が取り立てることを許可する半済令(はんぜいれい)も出されましたが、これは逆に言えば半分までしか取り立てることができない、という上限を設定した、という意味もあります。さらに荘園領主は守護に荘園の年貢の取り立てをはじめとした荘園の管理を任せるようになります。これを守護請といいます。こうして強くなった守護を守護大名と呼び、その守護の支配する国を領国と呼ぶようになります。そして当時の国の体制を守護領国制とも呼びます。まあこの辺はいろいろ議論があったと思いますが、私も追っていませんので、こんな感じで終わります。

 

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