足利義満の金ピカ人生

室町幕府の三代将軍の足利義満は金閣を建てた人として有名です。他にはとんちの一休さんにもやり込められる相手として出てきます。「屏風の虎をしばってくれ」と言って「屏風から虎を追い出してください」と言われたあの人です。

 

彼はどんな人だったのでしょうか。

足利義満像(鹿苑寺蔵)

目次

1 「あの景色を担いで帰れ」

2 細川頼之

3 独り立ち

4 天皇の父親がわり

5 南北朝の合体

6 出家し金閣を建てる

7 日明貿易と日本国王

8 後継者候補と突然の死

 

1 「あの景色を担いで帰れ」

足利義満は二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)の次男として生まれました。長男は正室から生まれていたので、義満は本来は室町幕府を継ぐ可能性はありませんでした。しかしその本来跡を継ぐはずだった子どもが若死にしたので義満に順番が回ってきました。この辺は足利尊氏と同じですね。

彼は尊氏が死んだ直後に生まれています。彼の兄はその三年前に亡くなっていますので、彼は義詮の正室の養子として事実上の後継として扱われます。

 

義満が生まれた頃はまだ室町幕府は南朝との戦いで圧倒的な強さを示せていませんでした。その大きな理由は尊氏と弟の足利直義(あしかがただよし)派だった大名たちが南朝の見方をしていたからです。山名氏や大内氏が代表的な人物です。

義満が四歳の時、幕府内部のゴタゴタで居場所を失った有力者の細川清氏という人物が幕府に反抗して南朝につきました。その結果、義詮は当時の北朝の天皇であった後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を連れて近江国(滋賀県)ににがれ、四歳だった義満は播磨国(兵庫県西部)の赤松則祐(あかまつそくゆう)に保護されます。これはすぐに義詮が京都を取り返したために義満も京に戻りますが、現在の須磨あたりにきた時に「ここの景色は気に入った。お前らが担いでいけ」と命じ、その器の大きさに家臣たちは驚いた、といいます。というか普通は主君のお子ちゃまでなければ殴り倒しているところです。よく言えば「気宇壮大」と言いますが、はっきり言えば「生意気なガキ」です。

 

2 細川頼之

義満が十歳の時、義詮は病に倒れ、四国から細川頼之(ほそかわよりゆき)という人物を招き、「お前に子どもをやろう」と言います。そして義満を呼び、「お前に父をやろう。決して反抗してはならない」と言い残します。頼之はまだ幼い義満に代わって幕府の政治を行うようになり、それ以降幕府のナンバー2を「管領(かんれい)」というようになります。鎌倉幕府の「執権」のようなものです。

 

このころには南朝も弱くなり、九州だけが南朝の元気なところとなっていました。その頃中国では元がモンゴル高原に退き、中国の覇権をにぎったのは明(みん)でした。明の洪武帝(こうぶてい)はそのころ中国や朝鮮半島の沿岸を荒らしていた「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊の取りしまりを要求するために日本に使者を送りました。そのころ倭寇を抑えることができるのは九州の博多を押さえていた懐良親王(かねよししんのう)だけでした。明は懐良親王を「日本国王」に任命し、倭寇の鎮圧を要求していました。

 

そのような状態になって、九州が日本から独立しかねない勢いになった状態では困ります。頼之は九州の制圧に本腰を入れることになり、切り札の今川了俊(いまがわりょうしゅん)を九州探題に任命します。ちなみに有名な今川義元は了俊の兄の子孫です。了俊は懐良を抑え込むことに成功しました。

 

義満の大きな功績の一つは、このころ義満は室町通に面した「花亭」と呼ばれていた屋敷を手に入れます。そこに「花の御所」と呼ばれる幕府の建物を建て、京都に幕府を置き続けることをはっきりと示します。この幕府を「室町幕府」と呼ぶのは「花の御所」の所在地が室町通に面していたからです。

 

3 独り立ち

細川頼之がリードする幕府政治に対して反対派の斯波義将(しばよしゆき)が義満に迫って頼之を追放します。それ以降義将派と頼之派が幕府の主導権をめぐって争うようになります。義満はその両者の上に立って将軍権力は強くなっていきます。この事件を「康暦の政変(こうりゃくのせいへん)」と呼びます。1379年のことです。中学受験では絶対に出ません。高校受験でも出ないと思います。大学受験では重要事項です。

 

その後義満は守護大名の力を削っていきます。1389年には土岐氏の内部の争いに介入し、土岐氏の力を削ることに成功しました。1391年には山名氏の内部の争いに介入し、山名氏の力を大きく削ります。山名氏は11カ国の守護職を持ち「六分の一殿」と呼ばれていました(日本は66カ国)。義満による介入の結果、山名氏清が兵を挙げ、義満は氏清を滅ぼして山名氏の守護を二カ国にすることに成功します。これを「明徳の乱」と言います。

 

4 天皇の父親がわり

義満が今までの幕府の将軍と違うのは、彼は自ら積極的に朝廷の政治に関わったことです。父と祖父は征夷大将軍以外にはせいぜい「権大納言(ごんだいなごん)」でしたが、義満は征夷大将軍の他に「右近衛大将(うこんえのだいしょう)を兼ねます。これは源頼朝が持っていた官職でした。さらに彼は権大納言になったときに父や祖父と違って自ら朝廷のいろいろな儀式などに関わっていきます。

朝廷で義満を教え導いたのは関白の二条良基(にじょうよしもと)でした。彼らの考え方としては、朝廷のおとろえを避けるには幕府と一体化するのがいい、と考えたようです。また義満にとっては南朝と合体するには朝廷を自分の管理下に置いた方がやりやすい、というのもあります。また明との関係ではやはり「国王」にならなければなりません。その辺をクリアするためにはまずは朝廷での自分の地位を高めることが早道と考えたようです。

 

義満の時の天皇は後小松天皇(ごこまつてんのう)で、院政を行っていたのは後円融上皇(ごえんゆうじょうこう)でした。義満は後円融と激しく対立します。きっかけは後円融が良基を嫌い、義満の院参(院の御所にやってくること)を拒否したことです。義満と後円融の関係は悪くなり、ノイローゼ気味になった後円融が自分の妻を刀で切りつけ、重傷を負わせる、というスキャンダルを起こし、後円融は政治的に力を失います。後円融院政がつぶれてしまい、義満が事実上の院政を行うことになりました。

 

のちのことになりますが、後小松の母が亡くなった時、義満は自分の妻を後小松の母代りにしています。ということは義満は後小松の父代りということになります。

 

これを義満が天皇の位を足利家に移そうと考えている、と主張する意見があります。国際日本文化研究センターの今谷明先生が有名です。近年ではどちらかと言えばそれに対して批判的な見方が多くなっています。現在の学界の多数説では、義満は天皇の後見をしていたため、上皇として扱われていた、義満が求めていたのは摂関家を超える家の格だった、というものです。

 

5 南北朝の合体

義満は権大納言で終わらずに内大臣から左大臣に昇進し、公武のトップに上り詰めます。そして北朝を代表して南朝の後亀山天皇と交渉し、南北朝の合体を成し遂げます。この時義満は北朝の反対を押し切って「両統迭立(りょうとうてつりつ)」などの条件を示して南北朝の合体を実現させました。1392年のことです。

 

6 出家し金閣を建てる

1395年には義満は征夷大将軍を息子の足利義持(あしかがよしもち)に譲り、自分は太政大臣となります。太政大臣になったのは武家では平清盛以来ですが、要するに太政大臣ポストは引退のための準備で、義満も半年後には出家します。

この出家については、以前は天皇から離れ、明との貿易を行える日本国王になるため、とか、天皇を乗っ取るため、とか言われていましたが、三十八歳というのが義詮の死んだ年齢である、というだけではないか、とも言われています。出家した、と言っても幕府の政務は自らが見ることには変わりはありません。むしろ幕府の主要な部分は義満がきっちり管理していました。

義満はやがて京都の北にある北山に北山第という屋敷を建て、そこに移ります。そこに義満は金閣という金メッキを施した建物を建てます。当時は金閣以外にも広い土地に多くの人々が屋敷を構える巨大な都市となっていました。義満の死後そこは「鹿苑寺(ろくおんじ)」という寺になります。義満が金閣を建てたのは日明貿易のためではないか、と思われます。

 

7 日明貿易と日本国王

義満はいよいよ日明貿易に乗り出します。実はまだ頼之が幕府の政治を行っていた頃に幕府は明に使者を送っていますが、当時は日本国王は懐良親王であったために室町幕府の使者は追い返されています。そのリベンジです。

当時明では建文帝とその叔父の燕王が争っていました。燕王に対抗するために日本からの使者は建文帝にとっては渡りに船だったようです。早速義満を日本国王に任命しました。しかし建文帝は燕王によって滅ぼされ、燕王は新たに皇帝となります。永楽帝です。

世界征服を目指し、クビライを超えようとする永楽帝にとってはクビライが手こずった日本がやってきたのは嬉しいことでした、大歓迎で義満の使者を迎えたと言います。

 

義満にとっての日明貿易のメリットは利益です。以前は天皇に代わる権威を明皇帝に求めた、というのが有力な見方ですが、義満が明皇帝の権威を国内向けに振り回したことはないことから、現在では利益である、と考えられています。

 

倭寇と区別するために「勘合」という書類をやり取りすることから「勘合貿易」と呼ばれています。実物の勘合の大きさを北海道大学准教授の橋本雄先生が復元しています。

北海道大学橋本雄研究室

 

8 後継者候補と突然の死

義満は後小松天皇を北山第に招きます。この時の様子はあたかも天皇が上皇を訪ねるようであった、と言われています。そして義満は自分の息子の足利義嗣(あしかがよしつぐ)を天皇の前で元服させています。元服前に天皇の前に進みでる「童殿上」は数百年ぶり、そしてその様子はあたかも親王元服のようでした。義嗣は事実上の親王待遇だったのです。

これをもって義満が後小松から義嗣への天皇の位の移動を考えていた、とする見方は以前は有力でしたが、現在では義嗣を最高の公家としてデビューさせようとしていた、と見る見方が有力です。ただ義満は一切自分の考えを人々に明かすことはなかったので、義満の未来像は不明です。

この北山第への後小松の訪問の数日後、義満はあっけなく急死します。後継者や未来構想を明らかにしていなかったため、斯波義将が諸大名の意見を取りまとめ、足利義持を後継者と決定し、義嗣はその地位を失います。のちに義嗣は義持に反抗した疑いをかけられ、殺されてしまいます。

 

義満の死後、朝廷では「鹿苑院太上天皇」つまり上皇号を贈ろうとしますが、義持はそれを拒否します。結局義満が残したものは金閣とそれを中心とした北山文化だけでした。

 

北山文化とは義満の頃の文化で、観阿弥清次(かんあみきよつぐ)・世阿弥元清(ぜあみもときよ)による観世座の能楽大成などが挙げられますが、実際には息子の義持の代のものが多いと言われており、北山文化という概念には疑問が出されています。

 

 

 

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