中学校古文を徹底的に読み込むー『徒然草』第四十八段
中学校古文を徹底的に読み込むシリーズです。中学校に入って古文の授業が始まった方から、大学で古文を読まなければならないがあまり得意ではなかった、という方までお役に立てるかと思います。もちろん高校・大学入試には役に立てるのではないかと思っています。もっとも高校入試はここまで読み込めなくても全く問題ありませんし、中学校の授業でもここまで読み込むことも少ないと思います。
前回に引き続き『徒然草』ですが、今回はあまり取り上げられていないんじゃないかな、というものを取り上げます。もしかしたら出ているかもしれません。
古文では主語がないことが多い、とよく言われます。私はその考えには与しません。必ず主語はありますし、そもそもそれぞれの文の主語を理解せずに読み進めるとだいたい無茶苦茶になります。
ではなぜ日本語では主語を省略することが多いのでしょうか。それはあくまでも省略しているからです。省略しても分かる場合は省略します。いろいろ書き出すと長くなりますのでこれでとどめますが、古文を読み込む時には「省略されている主語は何なのか」ということを意識して読んだ方がわかりやすいかと思います。
古文では特に省略することが多くなります。それは古文で扱う文章は基本的に内輪で読まれることを意識しており、書かなくても分かる、ということがあります。
では実際に第四十八段を見てみましょう。
光親卿(みつちかのきょう)、院の最勝講(さいしょうこう)奉行(ぶぎょう)してさぶらひけるを、御前(ごぜん)へ召されて、供御(くご)を出(い)だされて食はせられけり。さて食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾(みす)の中へさし入れて罷(まか)り出(い)でにける。女房、「あなきたな。誰にとれとてか」など申しあはれければ、「有職(ゆうそく)の振舞(ふるまい)、やんごとなきことなり」と返々(かえすがえす)感ぜさせ給ひけるとぞ。
古文を習いはじめの方はとりあえず音読することです。その時に「さぶらひ」「給ひ」などは「さぶらい」「たまい」と読んでください。
第一文です。
光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御を出だされて食はせられけり。
光親卿とは葉室光親のことです。院とは後鳥羽上皇のことです。来年の大河ドラマでもこの両名は出てくるはずです。光親は後鳥羽上皇の側近で承久の乱には反対しながらも最後は押し切られて加担、乱後処刑された人物です。処刑後、光親が乱に反対していたことを知った北条泰時は非常に後悔したと言われています。
最勝講とは毎年5月に宮中の清涼殿で興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺の僧侶を呼んで「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうぎょう)」を講じさせ、天下泰平を祈る宮中儀式です。光親が最勝講の奉行を勤めたのは建暦元年(1211)のことでした。
「さぶらひける」は漢字で書くと「侍ひける」となり、「侍(さむらい)」の語源となります。「祗候する」「貴人のおそばに控えている」という意味です。「さぶらふ」に過去の助動詞「けり」がついています。「祗候していたのを」という意味です。
「御前」はここでは「ごぜん」と読みましたが、「おんまえ」でもいいかと思います。「お前」の語源ですね。この場合は後鳥羽上皇の「御前」です。「召されて」は「召す」=「呼ぶ」の尊敬語に受け身の助動詞をつけたものです。そのまま「召されて」でよいと思います。
「供御」は天皇や上皇の食事を言います。「供御を出だされて食はせられけり」というのは主語がはっきりしません。「誰の」食事を「誰が」出したのか、ということを考えなくてはなりません。まず「供御」とあることから、この食事が本来後鳥羽上皇のものであることは明らかです。したがって「出した」のは後鳥羽上皇だとわかります。この「出だされて」を「出だす」と受け身の助動詞「る」と考えて「出された」と訳してはいけません。この場合は尊敬語として扱い「お出しになって」とするべきです。「供御をお出しになって」と訳すべきでしょう。「食はせられけり」も「お食べさせなさった」と後鳥羽上皇を主語とすべきです。
光親卿が院の最勝講の奉行をして院のお側に控えていたところ、院の御前に召されて、院は自らのお食事を光親卿にお出しになって光親卿にお食べさせになった。
第二文です。
さて食ひ散らしたる衝重を御簾の中へさし入れて罷り出でにける。
「食ひ散らす」というのは「食べ物をこぼしたり散らかしたりして食べた後をきたなくする」という意味と「あれこれと箸をつけて、少しずつ食べる」というのがあります。この場合もちろん後者であって訳文自体は「食い散らかした」でいいかと思いますが、イメージとして「少しずつだけ箸をつけた」というイメージでお考えください。つまり食べ物が多く残っている状態であって、必ずしも汚らしく汚れているわけではない、というイメージです。
衝重(ついがさね)はお膳のようなものとお考えくださればいいです。
「御簾の中へさし入れて」というのは後鳥羽上皇のいる御簾の中に、という意味です。つまり光親は御簾の外に控えており、御簾の中にいる後鳥羽上皇から食事を出され、それを少しずつ箸をつけるとそのまま御簾の中に返してしまった、ということです。つまり食べ残しのある膳を上皇のもとに戻してしまった、ということです。
「罷り出でにける」というのは「出る」の謙譲語「罷り出る」という意味で、この場合「退出した」でいいでしょう。
さて、少しだけ食べたお膳を御簾の中に差し入れて退出した。
次に第三文です。
女房、「あなきたな。誰にとれとてか」など申しあはれければ、「有職の振舞、やんごとなきことなり」と返々感ぜさせ給ひけるとぞ。
「女房」はもちろん後鳥羽上皇に仕える女官たちです。彼女らが「あなきたな、誰にとれとてか」と口々に言っている、ということになります。「あな」は「ああ」「まあ」とかそういう感じです。「きたな」はもちろん「汚い」ということです。食べ残しのあるお膳を自分らに丸投げどころか上皇のもとに返してしまった、ということですから女房たちもあわてたでしょうね。
「誰にとれ」=誰に片づけろ
「とてか」=「とて」は引用の格助詞でもともとは引用の「と」と接続助詞の「て」ですが、一語として考えます。「か」は疑問の終助詞です。「というのか」と訳すのが適当でしょう。
次の「有職の振舞、やんごとなきことなり」と言ったのは誰か、という問題ですが、この主語は誰でしょうか。
もちろん院ですね。これは読めば普通にわかりますが、文法的にしっかり確定しておきますと、敬語の使い方で分かります。「感ぜさせ給ひける」ということで、「感ず」に「させ」という助動詞がついていますが、これは使役の助動詞です。そしてこの場合この使役の助動詞がつくことで尊敬の意味を表しています。そこにさらに「給ふ」という尊敬語がついて一段高い敬意を示す言葉になっています。具体的には天皇・上皇など限られた人にしか使いません。こういう「させ給ふ」のような形を二重敬語といいます。ここで二重敬語を使われるべき人物は「院」しかあり得ません。
「やんごとなし」は「尊ぶべき」「身分の高い」「重要な」という意味がありますが、この場合「有職故実にかなった振舞、尊いものである」ということになります。
女房「まあ、汚い。誰に片付けろというのか」など申し合っていると、院が「有職故実にかなった振舞、見事なものである」と繰り返し感動なさっていらっしゃったということである。
いや、よく分からない話ですが、国文学者の小川剛生慶應大学教授の解説による『徒然草』には補註があって、そこでは海住山(かいじゅうせん)長房が後鳥羽上皇のもとに終日祗候していた時に同じく供御を一膳長房に与え、それを長房がさっさと食べて御簾の中の後鳥羽上皇に返した、という話が紹介されています。その時も上皇は「叡感アリケリ」(感動なさった)ということなので、そういうものだったということです。陪膳(一緒に食事をする人)がいない場合、自ら膳を運ぶことのない身分の人物はもとに戻す、というのが作法だったようです。
ここから一つのことが見えます。口々に「汚い」と言っている女房たちも御簾の中にいたのです。光親は御簾の外にいました。正二位権中納言だった光親はもちろん自分で食事を下げる、ということはしません。だからそのまま御簾の中に突っ返したのです。そしてそれが当時の公家たちのとるべき振舞だったのです。女房は光親に「片づけろ」と言ったのですが、光親はお膳を片付けるべき身分ではなかった、ということです。したがって光親は女房たちに片付けを任せた、ということでしょう。そして光親の身分からすればそれが正しい振舞だったのでしょう。逆にもっと身分の低い公家ならば自分が片付けるのでしょう。
今日はとりあえず「二重敬語」というのを押さえてください。現代日本語では二重敬語は使いません。「(誤)おっしゃられた」→「(正)おっしゃった」、「(誤)召し上がられた」→「(誤)召し上がった」、「(誤)ご覧になられた」→「(正)ご覧になった」というやつです。古文では非常に身分の高い人には二重敬語を使います。この辺の違いも押さえておきましょう。
ちなみに下の画像及びアイキャッチ画像は水無瀬神宮所蔵の後鳥羽上皇像で、後鳥羽上皇が隠岐島に流されることが決定し、出家する直前に母親に贈るために藤原信実に描かせた画像だそうです。最後の親孝行として二度と会えないであろう母親に自分の画像を送ったんですね。こう考えると切ないですが、そもそもなんの問題もなかった鎌倉幕府を潰そうとした因果応報ともいえます。