ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します安東愛季1
株式会社スクウェア・エニックスの戦国ゲーム「戦国IXA」に出てくる武将カードの解説シリーズ、一人目・二人目は著名な人物である足利義昭と本願寺顕如ですが、第21章の武将は基本的にマイナーな武将が多く、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康はもちろん毛利元就・伊達政宗・武田信玄・上杉謙信も出てきません。
今回は安東愛季(あんどうちかすえ)という人物です。
上の図は2021年バージョンですが、2018年バージョンもあります。
ちなみにこんなバージョンのカードもあります。こちらは「レアリティ」が低いカードで入手しやすく、その分能力も劣るカードです。ちなみに今まで紹介してきたのは全て「天」という最高の「レアリティ」を持つカードです。
「愛」という文字に引っ張られたのかな、と思っていたら同様の意見を戦国IXAWikiでも見かけました。私は好みではないのでこのバージョンは持っていません。
安東愛季とはまたマイナーな武将で、「好きな戦国武将は誰ですか?」と聞かれて「安東愛季です」というとまず「???」という雰囲気になるのではないか、と安東愛季ファンとしては思っています。
安東愛季はIXAブルには「下国安東家8代当主で「斗星の北天」と評された出羽の逸材だワン!中央政権の情勢にも明るく、交易によって一大国を築きあげた人物なんだワン!」と説明されています。
まずはこのようなマイナーな人物の場合は○○家から説明を。
安東家は出羽国の秋田・能代付近を中心に北海道に移住した和人(アイヌ以外の日本人のこと、アイヌ語でいうシサム)の宗主権を保持していた大名です。
この家の場合その祖先伝承が特異で、一部の家では神武天皇の大和入りに抵抗し、敗北して殺害された長髄彦の兄の安日彦の子孫とされています。その家系がのちに安倍氏となり、安倍氏の子孫のうち東北に残った子孫が安藤氏・安東氏と言われています。鎌倉時代から室町時代前半までは「安藤氏」、室町時代からは「安東氏」と表記されることが多いです。
鎌倉時代には「安藤五郎」という人物が「ゑそ」との戦いで戦死したこと、安藤氏が「蝦夷管領」と呼ばれていたこと、十三湊を拠点としてアイヌとの交易に携わっていたことが明らかとなっています。その時の実績によってしばしば「安東水軍」と呼ばれることもあります。
「蝦夷管領」という呼称から「蝦夷」つまりアイヌを支配する存在と考えられたこともありますが、どう考えてもアイヌとの交易を「管領」する得宗御内人であることがわかっています。
ちなみに「得宗御内人」とは、得宗つまり北条氏本家の家来という意味です。得宗は下北半島と津軽半島を含む青森県の広範囲の地頭職を持っていました。そのような場所は概ねアイヌとの交易を通じて利益を上げていた場所であると考えられています。アイヌ自身もさらに北の諸民族と交易をしていましたので、安藤氏を通じて得宗にも巨大な利益をもたらしていたことは間違いありません。
南北朝時代には北朝方として奮戦し、その結果安藤氏は津軽半島に大きな交易拠点を持つ「京都扶持衆」つまり室町幕府と直接主従関係を持つ有力な勢力となっていきました。
安藤氏は宗家の下国氏が十三湊に、分家の湊氏が秋田に、もう一つの分家の潮潟氏が現在の青森に、それぞれ拠点を築き、アイヌとの交易を通じて大きな利益を得ていました。また鎌倉時代から和人が北海道に進出し、アイヌとの交易を進めるようになると、彼らの統率も安藤氏の仕事となりました。
そんな安藤氏の境遇が一変するのは南部氏によって十三湊を落とされた時です。北海道に逃亡した安藤氏は室町幕府に助けを求め、幕府も話し合いの結果将軍足利義教の御内書を出して南部氏との和睦を持ちかけますが失敗に終わります(なお幕府の斡旋によって安藤氏が十三湊に戻ってきた、とするのは史料の誤読の積み重ねに基づく成り立ち得ない解釈です。詳しくは拙著『乱世の天皇』をご覧ください)。
十三湊から北海道に移った安藤氏は十三湊復活のために若狭国小浜の羽賀寺の修築を後花園天皇の勅命によって行う(後花園天皇が出てくるのは小浜が禁裏御料所だからです)など、室町幕府周辺に向けて様々な工作を行いますが、最終的に宗家の下国氏が壊滅し、潮潟氏の政季も捕虜になるなど湊氏を除いて崩壊します。
享徳の乱の余波を受けて武田信広らとともに下北半島を脱出した潮潟政季らは北海道に上陸したのち、湊氏からの呼びかけで政季は檜山(秋田県能代市)に移動します。政季は下国を名乗り、通称檜山安東氏を名乗るようになります。
その後も北海道南部の和人への名目的な宗主権を保持し、道南の有力者であった蠣崎季広とハシタインとチコモタインの三者の和睦(私見では領土分割条約)を取り持つなどの活動や、京都に拠点を築くために朝倉氏と交流をもったり、若狭武田氏を通じて足利義晴と関係をとりもとうとしたり、という活動が見られます。
下国安東氏が大きく飛躍するのは安東愛季の時代で、愛季は湊氏の内紛に介入し、湊氏と下国氏を統合してしまいます。その結果安東氏は現在の秋田県の大半を領有する戦国大名となり、さらに織田信長と関係を持って従五位下侍従の官途を獲得します。これは津軽に勢力を持っていたものの津軽為信に滅ぼされた浪岡北畠氏の後継者を意識したものと見られます。
出羽国北部(現在の秋田県)の沿岸部を抑えた愛季ですが、さらに内陸部に力を伸ばそうと角館の戸沢氏との戦い中に戦陣中で病死しました。彼の晩年か彼の嫡子の実季の代に安東氏は秋田氏を名乗るようになり、江戸時代には陸奥国三春藩(福島県三春町)の大名となって明治時代を迎えます。
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