鎌倉時代の社会
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次の文章をしっかり読んで赤字のところを覚えてしまいましょう。
この前の土曜日にやった鎌倉時代の社会についてです。
1 荘園と武士
御家人と言っても様々なレベルの御家人がいました。大きい御家人は大兵力を指揮する武士団のトップでしたが、数人の武士しか従えていない御家人もいました。
1200年のことです。侍所に御家人が集まって雑談していました。その時にその年に謀反の疑いで殺された梶原景時(かじわら かげとき)という武士のことが話題になりました。
武蔵国の御家人の渋谷高重(しぶや たかしげ)「景時のヤツ、近所の橋をこわしてしばらく抵抗すればよかったのに、何もできずに逃げ出して殺されてしまった。日頃威張ってた割にはしょぼかったな」
同じく武蔵国の御家人で御家人の中でもトップクラスの大きい御家人の畠山重忠(はたけやま しげただ)「でも急なことだったんだから堀を掘って橋をぶっ壊す暇はなかったんじゃね?難しいと思うよ」
信濃国の御家人の安藤右宗(あんどう すけむね)「畠山殿は大きな武士団だから橋を落としてとりでをつくるやり方は知らないみたいだな。そこらの家をぶっ壊して橋の上に置いて火をつければ、橋なんて何の苦労もなくこわせるぜ」
畠山さんは部下に「橋をこわせ」と命じたら、部下がいろいろやってくれるんですね。一方安藤さんは自分でやらなければならないから知っているわけです。鎌倉幕府の面白いところは、様々なレベルの人がいるわけですが、それでも「御家人」として平等だったところです。この話は『吾妻鏡(あづまかがみ)』という本に出てきます。覚えなくていいです。
御家人の収入は「御恩」による土地だと説明しましたが、もう少し詳しく説明しますと、「地頭」として荘園の税金を取り立て、その税金を荘園領主に渡す時に手数料を取る、という形です。これがよくトラブルになるんですね。多かったのは手数料を払わない、というトラブルです。連中は武器を持っていますし、幕府というバックがついていますから意外と面倒な相手です。
紀伊国(和歌山県)の阿弖河荘(あてがわのしょう)という荘園のトラブルは有名で、中学入試にも出てきます。
阿弖河荘の荘園領主は高野山金剛峰寺です。空海の開いた真言宗のお寺です。これも入試に出ますので覚えておきましょう。
阿弖河荘の地頭は湯浅宗親(ゆあさ むねちか)と言います。覚えなくていいです。湯浅さんが阿弖河荘の農民に訴えられた事件が有名です。「耳をそぎ、鼻をそぎ」というどぎつい言葉で訴えられています。もっとも訴えのポイントは「湯浅がめちゃくちゃしよるんで、高野山に杉の材木を納めることができません。悪しからず」ということです。
2 鎌倉時代の農業
鎌倉時代は前半は温暖期で、生産力が上がった時期でした。ちなみに温暖化が進むと関東・東北が発展します。逆に近畿は乾燥してしばしば飢饉が起こりました。鎌倉時代も後半に入りますと冷害が起こるようになり、東日本でしばしば飢饉が起こるようになります。14世紀に入ると世界的に小氷期に入り、一気に寒冷化が進みます。そのような中、人々は様々な工夫を行うようになります。
牛馬耕(ぎゅうばこう)が始まります。牛や馬を使って耕すやり方です。また草木灰(そうもくばい)を肥料にするようになりました。ウ□コ(💩)を使うようになるのはもう少しあとです。
西国、特に近畿地方では二毛作を行うようになりました。室町時代には全国に広がります。
3 鎌倉時代の商業
貨幣が流通してきます。こうなると年貢を現地から鎌倉に送るのも貨幣を使うようになります。つまりこういうことです。
例を挙げますと、津軽半島はだいたい北条氏が代々地頭でしたが、北条氏がそこまで行くわけはありません。代官を派遣していました。有名なところでは津軽安藤氏という武士を代官にしていました。津軽安藤氏は北海道のアイヌとの交易を行い、その貿易品を京都に送っていました。そしてその収入を鎌倉の北条氏に送っていたのです。こういうのはやはり貨幣があればこそ、です。
当時の日本は貨幣を中国から輸入していました。平清盛が兵庫(兵庫県神戸市)の大輪田泊(おおわだのとまり)で日宋貿易をやったことがありますが、平安時代から博多に宋の商人がやってきて結構活発に貿易を行っていました。その時の重要な輸入品が銅銭(宋銭)でした。
物を売り買いする市(いち)は決まった日に開かれるようになります。定期市といいます。このころは月に三回開かれることが多く、四日市市(三重県)や二日市町(福岡県)、六日市町(島根県、現吉賀町)などがあり、地名として一日市や五日市というのは各地にあります。
これは例えば四日市であれば、四のつく日に開かれる市が存在していた名残です。
しっかり覚えましょう。金曜日にこれを一応読んで、覚えるようにすれば大丈夫でしょう。