とりあえず覚えたい鎌倉時代の流れ

連絡事項

社会を選択している生徒は下の記事をしっかりと呼んで赤字部分を覚えてしまうように。

 

鎌倉時代は140年ほどです。意外と覚えることが多く、苦労することもあるようです。でも江戸時代よりマシです。

 

歴史の大きな流れとしては源頼朝の時代、執権政治の時代、得宗政治の時代と分けられます。ちなみにほとんど小学生レベルでは聞かない「得宗(とくそう)」ですが、北条氏の家督のことです。執権と得宗が離れて、権力が執権ではなく得宗に移ることから、段階分けをしています。

 

その流れを追いかけていきます。鎌倉時代は文化も結構大変です。何しろ鎌倉新仏教がありますから。

 

1 源頼朝の時代

源頼朝が一人で全てを決めていた時代です。

源頼朝は平治の乱に参加して清盛に捕らえられますが、いろいろあって命を助けられ、伊豆国に流されます。そこでまた色々あって伊豆の小武士団の北条時政の娘の政子と結婚します。また色々あって挙兵することになって、いろいろ苦労して平氏を滅ぼします。また色々あって源義経と対立します。そしてその対策のために1185年諸国に守護、荘園ごとに地頭を設置する許可をもらいます。これが鎌倉幕府の実質的な始まりです。そして1192年、頼朝は念願の征夷大将軍に任じられ、名実ともに幕府がスタートします。

 

要するに何が言いたいかといえば次のことです。

1185年:源頼朝、守護・地頭の設置を許可される

1192年:源頼朝、征夷大将軍に任じられ、幕府を開く

 

頼朝の作った幕府は御恩と奉公という「封建制度」というシステムですが、これは「御恩」という土地を与え、それに対して命をかけて「奉公」するという、土地による主従関係です。これを「一所懸命」といいます。

 

頼朝は侍所(武士の統率)・政所(政治)・問注所(裁判)を設置し、国ごとに軍事・警察権を行使する守護荘園ごとに管理する地頭を設置しました。政治は頼朝とその周辺の一部の側近で行われたため、この時代を頼朝の独裁制と呼びます。

 

守護←国ごとに設置、警察と軍事

地頭←荘園ごとに設置、年貢の取り立てなど荘園の支配

 

2 執権政治の時代

頼朝の死後、力を握ったのは北条氏でした。北条氏は競合する御家人を倒し、あるいは仲間に引き入れて御家人集団のリーダーとなります。具体的には将軍権力を抑制して御家人の話し合いのための評定衆を設置し、そこで話し合って重要な問題を決定したのです。執権は侍所と政所のトップを兼ねる役割でした。

 

頼朝の長男の頼家は北条氏と対立して暗殺され、次男の実朝は甥の公暁に殺されて源氏将軍は3代で断絶します。その後は京都から飾り物の将軍を迎えて北条氏らが政治をリードします。

 

それに対し実朝に期待をかけていた後鳥羽上皇が幕府をリードする北条義時の排除を目指して1221年、承久の乱を起こします。これに圧倒的な勝利を収めた鎌倉幕府は朝廷を監視するために六波羅探題を設置し、事実上日本全体の支配者となります。

 

1232年、三代目執権の北条泰時御成敗式目を定めました。武士のための法律です。裁判を公正に行うために現実に即した法律が必要だったのです。

 

1221年:承久の乱←後鳥羽上皇による倒幕計画

1232年:御成敗式目←北条泰時(三代執権)による法律の制定

 

3 得宗政治の時代

泰時の死後、北条氏も少しゴタゴタしたのち、北条時頼が5代目執権に就任し、力を持ってきた4代目将軍の藤原頼経、5代目の藤原頼嗣を追放し、6代目将軍として後嵯峨天皇の皇子の宗尊親王を迎えます。また時頼は執権を譲ったのちも得宗として権力を握り続け、執権や将軍という公的な地位ではなく、北条氏という一族のトップということで権力を握るという形になります。6代・7代は得宗となるべき北条時宗の成人までの中継ぎでした。

この辺の名前は全て覚えなくて大丈夫です。更にいえばこの部分、絶対に入試に出ません。保証します。

 

そのころ大陸ではモンゴル帝国が勃興していました。チンギスはモンゴル・トルコ部族を統一し、大帝国を作ります。チンギスの孫のクビライは5代目の大カアンに就任し、当時の中国である南宋に攻撃をかけます。その一環として日本にもモンゴルとの関係を持つように求めてきますが、8代執権の北条時宗はこれを拒否し両国は戦争となります。

1274年、最初の戦いが行われました。「てつはう」や集団戦法で苦しみますが、何とか退けます。これを当時の年号をとって「文永の役」といいます。

王朝名を「元」としたモンゴル帝国は南宋を滅ぼしたのちの1281年、再びやってきます。この時は台風もあって元は大損害を受けて退きます。人々は「神風」と呼びました。これを同じく年号から「弘安の役」と言います。そしてこの二つの事件をまとめて「元寇」と言います。

 

元寇←集団戦法や「てつはう」などの敵の新兵器に戸惑う、台風による撃退→「神風」

1274年:文永の役

1281年:弘安の役

 

元寇で戦ったにも関わらず、新たな土地が手に入らなかったため御家人は貧窮化し、幕府に不満を持つようになる、といいます。多分ウソですがまあそういうことにしましょう。元が襲来する前から御家人の窮乏化は幕府で問題になっていて、1271年、最初の借金チャラという徳政令が出されています。なぜ借金をチャラにするのか、といえば御家人が土地を失ってしまうことを避けるためです。ちなみに竹崎季長も何らかの理由で土地を失っていました。

 

もっとも有名なのが1297年に出された永仁の徳政令です。これは本当は幕府の訴訟改革なのですが、中に御家人から御家人ではない人への土地移動をチャラにする法令があったため、そこが有名になったのです。

 

1297年:永仁の徳政令(ひにくな永仁徳政令)

 

得宗とその周辺に権力が集中し、有力な御家人の心は鎌倉幕府から離れていきました。そのようなおり、後醍醐天皇という強烈な個性の持ち主が幕府を倒す、という無茶なことを思いついてやってみたところ、二回失敗して三度目の正直で1333年鎌倉幕府が滅びます。最有力御家人の一人であった足利高氏(のちの足利尊氏)を味方につけたのが大きかったようです。他に楠木正成と新田義貞を一応覚えておいてもいいかもしれません。

 

1333年:鎌倉幕府滅亡(いちみさんざんやっつけられた鎌倉幕府)

 

 

覚えるべき年代です。

1185年:守護地頭設置

1192年:源頼朝征夷大将軍

1221年:承久の乱←後鳥羽上皇・北条義時

1232年:御成敗式目←北条泰時

1274年:文永の役←クビライ・北条時宗

1281年:弘安の役←クビライ・北条時宗

1297年:永仁の徳政令

1333年:鎌倉幕府滅亡←後醍醐天皇

 

ちなみに後醍醐天皇と後鳥羽上皇がゴッチャになる事故が多発しています。

あとは鎌倉新仏教と鎌倉文化をとりあえずまとめれば大丈夫です。

フォローする