中学校古文を徹底的に読み込むー『徒然草』第五十二段

中学生になると古文の授業が始まります。

そこで古文とはどういうものか、ということを見ていきます。一応古文を習っている人向けのエントリになります。古文を習っていない人は、意味がわからなくても問題ないですから、「ああ、文法って大事なんだな、中学校に入ったら文法の活用形をしっかりと学習しよう」と思ってくださればいいです。そして外国語をやっている方は「古文も一種の外国語だな」と思ってくだされば幸いです。

 

具体的なレベルで言えば、現在中学1年生あたりで、古文の授業が本格的に始まったあたりを対象にしています。あと保護者様はお子様の古文の勉強のお手伝いに役立てていただけるかと思います。

 

中学校の授業、高校入試での古文は、近年急速に簡単になっており、まもなくなくなるのではないか、と古文関係者(日本文学や日本史)からは危惧されています。高校入試程度ならば下のような細かい作業は不要で、ほとんど現代語訳が付いているようなものです。従って公立高校入試をお考えの場合は、下に示したような、文法的に厳密に読んでいくやり方を学ぶ必要はほぼないでしょう。

一方、中高一貫の難関校の古文は、大学入試に向けて先取り学習をしていくので、かなり難しい内容になるのではないか、と思います。以下の文をしっかり読んでください。単に『徒然草』五十二段が読めるようになるだけではなく、古文の読み方が身につきます。こういうレベルまでしっかり身につけてはじめて「論理的に読む」ことができるのです。

 

こうして一つ一つ文法的に読む力を身につけてこそ、難解な古文も読めるようになります。

 

本日は『徒然草』五十二段を見ていきます。

『徒然草』は鎌倉末期から南北朝時代を生きた卜部兼好(うらべのかねよし)、出家して兼好法師(けんこうほうし)と名乗った人物が著した随筆文です。ちなみに吉田兼好(よしだけんこう)として知られていますが、近年この「吉田兼好」という言い方は、室町時代に吉田兼倶(よしだかねとも)という公家が自分の吉田家を盛り上げるためにでっち上げたものとされています。

 

この『徒然草』五十二段は、私が中学校の頃に『国語便覧』という副読本に載っていて、鮮明に記憶が残っていますので、ここにとりあげることにしました。

 

五十二段にはそれほど難しい部分がなく、原文と訳文を置いておけば、古文が苦手な方にもある程度意味はわかります。

 

では原文です。

仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで石淸水(いわしみず)を拝まざりければ、心憂(う)く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣(もう)でけり。極楽寺(ごくらくじ)・高良(こうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。

 

古文はまずは音読してみることをお勧めします。

まず第一文を解説していきます。

仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで石淸水(いわしみず)を拝まざりければ、心憂(う)く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣(もう)でけり。

「仁和寺にある法師」=仁和寺にいた法師

「年寄るまで」=年寄りになるまで

「石清水を拝まざりければ」=石清水を拝まなかったので

「心憂く覚えて」=残念に思って

「ただひとり、徒歩より詣でけり」=ただひとりで、徒歩で詣でた。

 

特に難しいところはなかったと思います。

ただ古文っぽいポイントを示すと、「拝まざりければ」あたりですね。「ざり」は打ち消しの助動詞「ざる」の連用形です。今でも「見ざる言わざる聞かざる」という言葉でも使いますね。次の「ければ」は過去の助動詞「けり」の已然形に「ば」をつけたものです。口語では「れば」は仮定形ですが、古文では「れば」は已然形(いぜんけい)といい、意味は「なので」となります。仮定形と已然形の違いに気をつけましょう。

 

で、なぜ文法の活用とかを中学に入ると急にうるさくいうのか、といいますと、古文で使うからです。この辺はまた新しくエントリを立てますね。

第二文です。

極楽寺(ごくらくじ)・高良(こうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

「極楽寺(ごくらくじ)・高良(こうら)などを拝みて」=極楽寺・高良社などを拝んで

「拝む」は四段活用動詞です。未然形は「ま」、連用形は「み」、終止形は「む」、連体形も「む」、已然形は「め」、命令形も「め」の四段で活用することから、この名があります。口語で五段活用動詞は、文語ではほぼ四段活用動詞となります。

「かばかりと心得て帰りにけり」=これだけ、と思ってかえってしまった

「かばかり」というのは副詞で、「この程度」「これだけ」という意味です。

「心得(こころえ)」は下二段活用動詞「心得(こころう)」の連用形です。下二段活用動詞とは口語では下一段活用動詞にあたります。未然形が「え」、連用形が「え」、終止形が「う」、連体形も「う」、已然形が「え」、命令形が「えよ」と「う」と「え」の二段で活用するのでこの名があります。

「帰りにけり」は「帰る」の連用形「帰り」と、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」と、過去の助動詞「けり」の終止形が付いているかたちです。「帰ってしまった」と訳します。ちなみに「けり」は感動を示す詠嘆(えいたん)の意味もあり、この場合には「だったんだなぁ」と訳します。「百人一首」を見ればけっこう目につきますね。

 

次に第三文です。

さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

これ、「 」をなくすとなかなか難しくなりますね。「人にあひて、「〜」と言ひける」という形になっているのだ、ということが理解できれば「 」を付ける問題にも対応はできます。この辺は普通の国語の読解と変わりありません。

「かたへの人」というのは、「かたえ」と同じで、漢字では「片方」と書きます。色々な意味がありますが、ここでは「かたわらにいる人」つまり「仲間」「同僚」という意味になります。この辺は辞書をとにかく引くことが大事になります。

「年ごろ思ひつること」=「年ごろ」というのは「日ごろ」という言葉を知っていれば、意味も分かりますね。「長い間」「長年」という言葉になります。「思ふ」に完了の助動詞「つ」の連用形「つる」が付いています。「思っていた」という感じになります。

「果たし侍りぬ」=「果たし」に「侍り」と「ぬ」が付いています。「侍り(はべり)」というのは丁寧の補助動詞になります。もともとは「居る」の謙譲語の「侍る」という四段活用動詞が助動詞のように使われています。「ぬ」は完了の助動詞で「た」です。したがって「果たしました」となります。

「聞きしにも過ぎて」=「聞きしに勝る」という言い回しを知っていれば簡単ですね。そのままです。四段活用動詞「聞く」の連用形「聞き」に過去の助動詞「し」をつけた形です。「過ぎて」というのは上二段活用「過ぐ」の連用形です。上一段活用の動詞はほぼ上二段活用の動詞になります。未然形「ぎ」、連用形「ぎ」、終止形「ぐ」、連体形「ぐる」、已然形「ぐれ」、命令形「ぎよ」となります。

「尊くこそおはしけれ」=これは古文でも難しい「係り結び」です。「係り結び」とは「ぞ・なむ・や・か・こそ」という言葉が入ると、その文の末尾が終止形ではなくなる、というものです。基本的に意味を強める時に使います。この文には「こそ」が入っています。「こそ」が入ると文末は已然形になります。「こそ」を抜くと「尊くおはしけり」となります。「おはす」は「いる」の尊敬語で「いらっしゃる」と考えればいいでしょう。「けり」は詠嘆の助動詞です。「尊くていらっしゃったよ」という感じになります。これを「こそ〜けれ」という係り結びで強めています。従って訳する場合にも強める感じを入れればいいかと思います。例えば「モーッ!!!メッチャ感動しまくりー!!!!はぁ尊い、尊い、ありがたや〜!!!!!!!」という感じではどうでしょうか。やりすぎですか。学校の定期テストではやらないでください。先生、びっくりしますから。

「そも、参りたる人ごとに山に登りしは」=「そも」は「それにしても」という意味の接続詞、「参りたる」は「参り」(四段活用動詞)と「たり」(完了の助動詞)の連用形です。「人ごとに」は「ことごとく」と同じような意味で、「人がことごとく」とということになります。「山に登りしは」や「登る」に過去の助動詞「し」をつけています。従って「それにしても、参っている人がことごとく山にのぼったのは」となります。

「何事かありけん」=ここも係り結びが使われています。「か〜けん」です。「けん」は過去の推量の助動詞「けむ」の変化形です。そして「けむ」「けん」の活用形は終止形「けむ」、連体形「けむ」、已然形「けめ」なので、終止形と連体形は同じです。この係り結びは「か」という疑問を示す係り助詞がついていますので、「何があったのだろうか」と最後に疑問の形にする必要があります。

「ゆかしかりしかど」=「ゆかしかり」「しか」「ど」と分かれます。「ゆかしかり」は形容詞「ゆかし」の連用形です。「ゆかし」の連用形には「ゆかしく」という言葉もあります。意味は「心ひかれる」「知りたい」「見たい」などです。「しか」は過去の助動詞「き」の已然形、「ど」は逆説の接続助詞です。「心ひかれたけれど」「見たかったけれど」となります。

「神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」=ここも「係り結び」があります。「こそ〜なれ」ですね。「本意なれ」は「本意」「なり」(断定の助動詞)です。「神に参ることこそが本来の目的であると思って、山までは見なかった」となります。

「とぞ言ひける」=ここも「係り結び」です。「ぞ〜ける」です。「と言ったのである」ということになりますね。

 

少しのことにも、先達はあらまほしきものなり

ここでは「あらまほしきもの」だけ見ておきましょう。まず「あり」の未然形「あら」に願望の助動詞「まほし」の連体形「まほしき」をつけています。「まほし」の連体形には「まほしかる」もあります。

意味は「少しのことにも、先達はあってほしいものである」となります。

 

現代語訳をつけておきます。

仁和寺にいた法師が、年をとるまで石清水八幡宮に参拝したことがなかったので、残念に思って、ある時思い立って、ただ一人で徒歩で参詣した。極楽寺・高良社などに参拝して、これだけと思って帰ったのであった。

そして仲間にあって「長年思っておりましたことを果たしました。聞いていたのよりもずっと尊いものでいらっしゃたものだ。それにしても参拝している人がみんな山に登っていくのは何事があったのだろう、見てみたかったが、石清水八幡宮に参拝することこそが本来の目的なのだと思って、山まではみなかった」と言ったものだ。

少しのことでも案内役は欲しいものだ。

 

この話の何が面白いか、と言えば、石清水八幡宮の案内を見ればわかります。

石清水八幡宮:境内のご案内

このリンク先をご覧になればわかりますが、石清水八幡宮は山の上にあるのです。件の法師は下にある極楽寺(現在は無くなっています)と高良社(現在の高良神社)だけ参拝して、本体の石清水八幡宮には参拝しなかったのです。

「石清水八幡宮に参拝することこそが本来の目的なのだと思って、山まではみなかった」って「いや、行けよ!!」というツッコミが必要ですね。

 

アイキャッチ画像は以下のところからいただきました。

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