『乱世の天皇』副読本4ー後小松天皇
拙著『乱世の天皇』を読むときに知っておくと役に立つ知識です。今回は後小松天皇を取り上げます。
あまり有名な人物ではない、と言いたいところですが、皇子に一人、めちゃくちゃ有名人がいます。一休宗純が後小松天皇の第一皇子と言われています。そしてそれについては今日ではほぼ確定していることと言われます。そして何を隠そう、一休が後小松天皇の皇子であることが分かったのは後花園天皇の一休への手紙の分析からでした。
後小松天皇は後円融天皇の皇子にあたり、後円融天皇から譲位される形で天皇になります。しかしその直後に後円融天皇は足利義満ともめて政務から遠ざけられ、10年間を静かに余生を過ごすこととなりました。
後小松天皇の最初の大きな仕事は南北朝合体です。
これは足利義満が勝手に進めたものなので、後小松天皇としては寝耳に水というところが大きいでしょう。特に両統迭立とか、南朝の後亀山天皇から後小松天皇へ位を譲る、という取り決めに至っては後小松天皇およびその周辺からすれば「お前は何を言っているんだ?」の世界でしょう。
後小松天皇と後亀山天皇の対面は実現せず、後小松天皇サイドが一方的に三種の神器を接収してあっさり終わってしまいました。のちに後亀山天皇に太上天皇号を奉呈することになりましたが、これはさすがに義満が動いたので朝廷としても反対だが反対できない状態になり、結局「天皇の孫に太上天皇号の例はないが、特別に与える」という形で太上天皇号が与えられることになりました。
後小松天皇は1383年に父の後円融天皇の亡くしていますが、1407年に母の通陽門院三条厳子を亡くします。天皇が喪に服すことを「諒闇」(りょうあん)と言いますが、後小松天皇は在位中に父と母の二人の諒闇を経験することになります。
在位中に二度の諒闇を経ることの先例は一条天皇・四条天皇・後醍醐天皇がいましたが、義満は後醍醐天皇と四条天皇の先例が不吉と言い立てて諒闇を回避するように動きます。
当初は後小松天皇の母の崇賢門院広橋仲子にしようとしましたが、義満が反対します。結局義満の意中は義満の妻の日野康子でした。康子は天皇の母に準ずる地位を与えられます。准母と言います。そして諒闇を回避するには准母を立てることが行われていましたが、義満は自分の妻を准母に立て、自分は後小松天皇の事実上の父親がわりに納まりかえってしまいました。
この出来事から、足利義満は後小松天皇の後には自分の息子の足利義嗣を天皇にしようとしているのではないか、そうしておいて天皇家を乗っ取って天皇を足利家で継承しようとしたのではないか、という見解が出されました。これを「王権簒奪論」(おうけんさんだつろん)と言います。
これについては現在はどちらかといえば認めない見解が優勢で、多数説では義満は天皇家に次ぐ家の格を求めたに過ぎない、と言われていますが、近年再び義満が天皇になろうとしたのではないか、という見方が出されています。
実際は義満は義嗣が元服した直後に急死していますので、義満が何を考えていたのかは、闇の中です。
私は義満が天皇を凌ぐ権威を身につけようとしていた、という可能性は否定できないとは思っていますが、義満が王権簒奪を目論んでいた、とまではいえない、という立場です。
次回は引き続き後小松天皇を見ていきます。後小松天皇は足利義満の息子の足利義持や足利義教を散々困らせてしまう、かなりの困ったちゃんです。