『乱世の天皇』副読本3ー後光厳皇統の人たち

本エントリは拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の副読本として、歴史に詳しくない方が拙著を読むときに、あった方がいい知識を記しています。

 

『乱世の天皇』–株式会社東京堂出版

 

今回は「後光厳皇統の人たち」というテーマですが、拙著では「皇統」という言葉をよく使います。まずそれについて説明します。

 

拙著では天皇を出す家全体をまとめて「天皇家」と呼んでいます。現在では「皇室」と呼ばれています。「皇室」というのは近代になってからの用語で、「皇室典範」によって定義された皇室のことを指していますので、朝廷という制度のあった前近代(江戸時代以前)に「皇室」という言葉を使うと、近代の皇室との違いが曖昧になるので、何かしら用語を作る方向性になっています。

 

その場合多くの研究所ではそれを「王家」と呼んでいます。当時の用語としては天皇を出す家全体のことを「王家」と呼んでいましたが、一般的に普及している言葉ではないことと、面倒臭いことになったりしますので、「王家」という用語を私は回避しています。

 

そして天皇家はもちろん「万世一系」ではなく、しばしば分裂し、ある天皇の子孫は断絶し、ある天皇の子孫が今日まで続いているのです。拙著ではその系統をその系統の始まりに位置する天皇の名前をとって「何とか皇統」と呼ぶことにしています。

 

ここで関係のあることをいえば、崇光天皇の子孫を「崇光皇統」、後光厳天皇の子孫を「後光厳皇統」と呼んでいます。現在の皇室は崇光皇統の子孫ということになります。

 

前回に崇光天皇に代わって天皇になったのは弟の後光厳天皇だという話をしました。そしてその後は後光厳天皇の子孫が天皇の位を継承します。

 

後光厳天皇の次は後円融天皇です。

 

後円融天皇は色々とやらかしてくれます。

 

息子に後を絶対に継承させたい、と義満相手にパニクります。義満からは「誰が崇光皇統をひいきしようと私がついております」と言われていますが、義満は「言われんでも崇光皇統に天皇を継がせるわけないわな。何をパニクってんだか」と思っていたでしょう。

 

とりあえず後円融天皇は息子の後小松天皇に皇位を継承させることに成功します。というよりも

ことここに至っては崇光上皇の子の栄仁親王(なかひとしんのう)を天皇にしようという人はいませんでした。後円融天皇はどっしりと構えていればよかったのです。

 

ただ後円融天皇には引っかかるものがありました。それは三条公忠という内大臣を務める公家が、自分の土地について天皇ではなく義満に訴え出て、義満を通じて天皇にその土地の所有を認めてもらったのです。このように幕府から朝廷に話を通すことを「武家執奏」(ぶけしっそう)といいます。武家執奏を三条公忠は使ったのですが、それが後円融天皇の機嫌を大きく損ねました。

 

後円融天皇は義満からの執奏状を一旦は無視しました。これは不満の表明であり、公忠はそこでやめておくべきだったのですが、公忠は少し空気の読めないところがあったのか、再度義満からの催促を行ってもらいました。

 

後円融天皇は義満や公忠に直接不満を言わずに、公忠の娘で、後円融天皇の中宮の三条厳子(たかこ)に「お前の父からの執奏状は受け付けてやる。その代わりにお前とは口もきかないし顔も合わせない」と脅しをかけました。結局公忠はその土地の入手をあきらめました。

 

しかしその後公忠のもとに後円融天皇から「この前の土地は武家執奏に頼ったからダメだったが、別の土地を埋め合わせに与えよう」と言われます。そして実際に公忠は後円融天皇から土地をもらいました。喜んでいる公忠のもとに徳政令が出された、という知らせがとどきます。つまりこの数ヶ月分の土地の取引を無効にする、というものです。しかし後円融天皇はていねいにも「公忠の土地は除外する」という命令もつけてくれました。

 

さあ、どうしましょう。その土地の権利は自分に関してだけは認められています。

 

その土地の権利を手放します、と答えたあなた、正解です。

 

その土地は天皇がわざわざ認めてくれたのだからもらっておくか、と思ったあなた、アウトです。

 

これは後円融天皇のいやがらせです。いわば「ぶぶ漬けでも食うて行きなはれ」です。こう言われて「ぶぶ漬け(お茶漬け)を食べてはいけないのと同じことです。「公忠の土地は俺がしっかり守ってやるからな(だから気をつかって辞退しろ)」ということです。

 

ちなみにここで後円融天皇に逆らうとどうなるのか、といえば、娘の厳子の身に危険が及ぶかもしれません。

 

そのおそれは二年後に現実のものとなります。

 

後円融天皇は義満の助けもあって順調に後小松天皇に位を譲ることができました。しかしその直後に足利義満との対立が始まり、後円融院政はうまく回らなくなります。何事に関しても厳しい義満と、何事に関してもわがままでマイペースな後円融上皇の関係がうまく行くはずがありませんでした。

 

そのような中、厳子は後円融上皇の皇女を産みました。実家で産みましたが、帰ってきたその日、事件が起こります。後円融上皇は厳子に会いたい、と言ってきましたが、衣服の準備が間に合わない、と参上をためらっていたところ、後円融上皇が刀を持って厳子の部屋に乱入し、厳子を峰打ちにします。「峰打ちじゃ、安心せい」とはよく言われる台詞ですが、安心できません。1メートルもある刃物の背中で殴りつけられれば怪我もします。しかも日本刀は背中も尖っていますから。

 

厳子は重傷を負いますが、騒ぎを聞いてかけつけた後円融上皇の母親の崇賢門院が上皇を落ち着かせ、三条家に使いを出して厳子を救出させます。

 

上皇がいきなり中宮に切りつけ、重傷を負わせる、というのはものすごいスキャンダルですが、話は拡大して行きます。後円融上皇は自分の側室を追放します。義満と不倫関係にある、と疑ったのです。義満は身の潔白を主張しようと使者を出しますが、後円融上皇は「死んでやる」と立てこもってしまいました。母親の説得で何とかなりました。

 

ちなみに崇賢門院は義満の伯母に当たります。崇賢門院の妹が義満の母親にあたります。つまり義満と後円融はいとこということになります。

 

この事件をきっかけに後円融上皇は政治から遠ざけられ、義満が事実上の院として後小松天皇を支える形ができます。これが義満の事実上の上皇待遇につながり、「義満が天皇になろうとした」とか「義満が天皇家を乗っ取って息子を天皇にしようとした」とか言われる学説を生み出していくことになります。細かいことをいえば「義満が天皇になろうとした」という学説は存在しません。あくまでも義満が上皇待遇を求めた、という話であり、その目的が自分の息子を天皇にしようとした、という話です。その見解を「王権簒奪説」(おうけんさんだつせつ)と言います。これは戦前から主張されていましたが、近年(といっても三十年前)では今谷明氏が『室町の王権』という書物で主張し、一時は多数説となりました。現在では多数説は義満にそのような意図はなかった、という考えですが、現在でも今谷説はアップデートされつつ影響力があり、王権簒奪説も近年では再評価されつつあります。

 

次回は後小松天皇を取り上げます。

 

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