歴史の大きな流れを押さえようー明治時代5

明治時代の最後です。

明治時代を一言で言いますと近代化、といえます。

この辺は中学生の世界史が関係してきますが、そもそも明治維新という話を世界史的視野を無視して話してもよくわからなくなるのが当然です。

覚えなくていいですが、大体のところを分かっていたほうがいろいろ便利です。

 

イギリスでは宗教上の争いから清教徒と呼ばれる一派が、清教徒を弾圧したイギリス国王を処刑する「清教徒革命」が起こり、その後の「名誉革命」で議会政治が定着します。

フランスではフランス革命によって議会政治が定着し、またアメリカではイギリスから独立して議会政治を推し進めていきました。そしてイギリスで始まった産業革命によって資本主義が始まり、やがて原料と市場を求めて世界各地を植民地化する帝国主義と呼ばれる仕組みを作っていきます。この植民地を持つ資本主義の形を帝国主義と呼び、帝国主義諸国を列強といいます。

日本も明治維新によって封建国家を打倒し、その後の自由民権運動を経て憲法に基づく議会政治を確立しますが、少し遅れてスタートしたため、列強に追いつけ、というのが一つの目標になります。文明開化・憲法制定・日清・日露戦争などはその動きで理解できます。

 

今回のテーマ、「産業の発展と社会の変化」もいわゆる「帝国主義」化ということができます。

 

⑴ 日本の産業革命

産業革命とは、それまでの手作業から機械化が進んで生産力が一気に増加することです。そのためにはいろいろな条件がありますが、それはまたいつか。

 

官営模範工場はあくまでも「模範」であって、民間の資本を育てるのが目標です。資本を持った資本家(ブルジョアジー)が賃労働者(プロレタリアート)をやとって働いてもらってその賃金を支払うシステムを「資本主義」といいます。来年度の大河ドラマ(ずれ込みそうですが)の主人公の渋沢栄一は多くの会社を設立したために「日本資本主義の父」と呼ばれます。

 

そしてそのころから大規模な会社が出てきます。銀行を中心に大きな会社が集まってグループを作るようになりますが、そのグループを「財閥」といいます。特に四大財閥の「三井」「住友」「三菱」「安田」は覚えておいてください。

 

日本では官営模範工場の払い下げによって第一次産業革命が始まりました。大体日清戦争のころです。この産業革命はもともとマニュファクチュア(工場制手工業)化が進んでいた繊維産業で起こりました。軽工業中心の第一次産業革命というのは、そういう事情があったわけです。

 

日清戦争で日本は多額の賠償金を手にしました。その賠償金を基にして作られた官営八幡製鉄所は1901年に操業を開始し、日露戦争ごろには重工業(金属・機械・化学)中心の第二次産業革命が始まります。

 

1890年代から1900年代の20年は、日清・日露戦争、条約改正、産業革命によって日本が帝国主義諸国=列強の仲間入りを達成した時期だったのです。

 

板書

第一次産業革命

日清戦争前後→軽工業中心

第二次産業革命

日清戦争の賠償金→官営八幡製鉄所(1901年)

日露戦争前後→重工業中心

 

⑵ 労働問題と公害の発生

① 労働問題

しかし資本主義化が進むと、そこで働く労働者の環境が問題になります。労働力を安く確保できれば、それだけ資本家はもうかります。少年・少女が安い賃金で長時間労働させられることが多く見られました。細井和喜蔵は『女工哀史』という本を書いて、当時の日本の工場で低賃金で悪環境の中、長時間労働によって病気になって死んでいく女工と呼ばれた少女たちのルポルタージュを書いて、日本資本主義のやみを告発しました。

 

そのような中で社会主義思想が入ってきます。わかりやすくいいます。社会主義では会社も社会のものになって、人々は社会に役に立つために働くようになるという考え方です。そこでは「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という仕組みが行われ、資本家はいなくなって、全員がそれぞれの能力を活かして働き、生活のために必要な費用を社会から受け取る、という考え方です。実際に社会主義をかかげてできた国ではものすごい独裁のもとで人々がひどい目に会いましたが、まだ社会主義が実現していなかった時代には、その考え方は輝いて見えたかもしれません。

 

しかしそれは資本主義を根本から揺るがす考えであり、さらには天皇制をも否定する考え方でした。政府は社会主義者を厳しく取り締まります。その代表的な事件が、明治天皇暗殺未遂事件をきっかけに、その関係者のみならず、幸徳秋水ら多くの社会主義者24名を死刑(執行されたのは12名)にした大逆事件です。

 

② 公害

工業の発展は、公害をも引き起こします。汚れをそのまま垂れ流すのが最ももうかるからです。そして当時の政府もそのような企業の姿勢を後押ししていました。

 

中学入試レベルでは栃木県の足尾銅山鉱毒事件を覚えておけば足りるでしょう。

栃木県の足尾銅山から流れ出る銅や工場から吐き出される硫酸などの影響で、周辺の山林は枯れて洪水が起こり、水野は毒が流されて人々が死にました。しかし政府も会社も関係を認めず、栃木県選出の衆議院議員の田中正造はこの問題を取り上げますが、全く相手にされません。

1901年、衆議院を辞職した田中正造は幸徳秋水が書いた直訴状を明治天皇に直接手渡そうとして失敗します。田中は死を覚悟しての行動でしたが、変な人がよろめいた、と処理されました。

 

その後公害対策として谷中村を貯水池とし、そこの住人を北海道のサロベツ原野に移住させることが決定し、田中は谷中村に住み続けました。

1913年、支援者宅で死去した田中の持っていた全財産は袋に入っていた聖書と大日本帝国憲法など書物2冊と鼻紙、海苔、小石、日記帳3冊だけだった、と言われています。

 

足尾銅山は1973年に全ての銅を掘り尽くしたために閉山、1974年にはじめて鉱山側が責任を認めました。実際にはカドミウムがコメから検出されていましたが、その点の責任については鉱山側は認めていません。

 

2013年、田中正造の直訴状は田中の出生地である佐野を訪れた天皇(現上皇)に伝えられました。

 

板書

社会問題

労働問題→『女工哀史』など、長時間・低賃金・悪い環境での労働

社会主義思想→大逆事件(幸徳秋水)など

公害問題→足尾銅山鉱毒事件(栃木県)→田中正造

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