歴史の大きな流れを押さえようー明治時代4

明治時代は非常に重要かつ面倒くさいところです。面倒くさいから重要になるわけですが。

 

特に前回取り上げた条約改正と、今回取り上げる日清・日露戦争、そしてついでに取り上げる産業革命の問題は、これらが同時並行で進んでいるため、非常に入り組んでいます。とりあえずそれぞれのトピック(条約改正、日清・日露戦争、産業革命)ごとの流れを押さえた上で、全体の流れを整理するのが正しいと思います。

 

1 日清・日露戦争

⑴ 日清戦争

時代は1871年に戻ってください。

1871年、日本は清との間に「日清修好条規」を結び、朝鮮に対しては「征韓論」もありましたが、最終的に1875年江華島事件を起こして武力によるおどしで開国させ、1876年には不平等条約である「日朝修好条規」を結ばせました。

 

この日朝修好条規は朝鮮を清から引きはがす項目があり、清にとっては無視できない状況でした。

 

このあと朝鮮国内では日本派と清派による内紛が起き、いろいろごちゃごちゃするのですが、中学入試では出てきません。

結局朝鮮国内で開国によって生活苦になった民衆の不満が高まり、1894年、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)が起こります。首謀者の属していたグループの名前をとって東学党(とうがくとう)の乱ともいいます。甲午農民戦争の甲午というのは干支です。1894年が甲午(きのえうま)年にあたっていたからです。

 

朝鮮政府は清に出兵を要請しますが、日本も出兵し、甲午農民戦争はあっという間にしずめられます。しかし朝鮮国内に残った日清両国の間に戦争は起こります。これが日清戦争です。

 

圧倒的に強いと見られていた清はあっさり日本に負けます。

 

⑵ 下関条約

1895年、下関で日清の講和会議が開かれ、講和条約が結ばれます。この講和条約を下関条約といいます。

日本側からは内閣総理大臣の伊藤博文と外務大臣の陸奥宗光が出席しました。この二人は覚えてください。清側の代表が李鴻章ですが、これは難関高校以上の知識になります。

 

下関条約の内容は以下の通りです。

① 朝鮮の独立を認める。(清の影響をなくす)

② 賠償金として清は日本に2億両(テール)を支払う。これは当時の日本の国家予算の三年分。

③ 清は台湾・遼東半島などを日本にゆずる。

 

日本はこの賠償金を「富国強兵」のために使いました。軍事費に80%以上が使われ、日本は一気に軍事大国として成長します。それ以外で覚えておいたほうがいい使い道として官営八幡製鉄所の建設があります。これで日本の産業革命は本格的に進み、日本は列強の仲間入りを果たします。

 

日清戦争の本質を描いた有名な風刺画が、ジョルジュ・ビゴーによるこの絵です。

 

 

日本と中国はわかりますね。魚釣りをしています。ねらう魚は朝鮮です。それを橋の上からロシアが眺めています。日清両国の争いは朝鮮をめぐる争いで、ロシアがそのあと朝鮮を狙っている、というものです。

 

⑶ 日清戦争後の動き

「眠れる獅子」と呼ばれた大国の清が、日本という小さな国に負けたことは、世界中がびっくりしました。と同時に日本の列強入りを警戒する動きが起こります。特にロシアは南下政策を進めていましたから、そこに日本が出てくると利害がぶつかります。

 

そこでロシアはフランス・ドイツとともに日本に対して遼東半島を清に返すように圧力をかけてきます。これを「三国干渉」と言います。日本はロシア・フランス・ドイツの言い分を認め、賠償金の増額と引き換えに遼東半島を清に返しました。

 

この結果、日本国内ではロシアに対する反感が盛り上がりました。また列強は清の分割に乗り出し、清の国土は次々と列強に貸し出されていくことになります。

例えばロシアは遼東半島を清から借りることになります(これを租借といいます)。またドイツやフランス、イギリスも次々と清の一部を租借します。

朝鮮では日本派が没落し、ロシア派が力を持つようになります。

イギリスはロシアの南下を恐れ、日本との同盟を組むことになります。1902年日英同盟が結ばれました。

日英同盟の絵です。

テキストにはビゴーの絵が載っていますが、こちらは日本人による絵です。ビゴーに比べて日本人がイケメンに描かれていますね。

 

座って料理しているのがロシアです。ロシアにけんかを売ろうとしている小さな人が日本、後ろで日本をけしかけているデブがイギリス、その後ろに立っているスマートな男がアメリカです。イギリスとアメリカはロシアに対抗する必要から日本を応援していますが、日本に危険なことをやらせて得をしようとしています。

 

板書

1875年:江華島事件

1876年:日朝修好条規(不平等条約、朝鮮開国)→日本と清の対立

1894年:甲午農民戦争(東学党の乱)→日清両国の朝鮮出兵

1894年:日清戦争→日本の勝利

1895年:下関条約(日本側 伊藤博文・陸奥宗光)

→①朝鮮の独立

②賠償金2億両(日本の国家予算の三年分)→官営八幡製鉄所

③遼東半島・台湾をゆずる→三国干渉→ロシア・フランス・ドイツ

1902年:日英同盟←ロシアへの対抗

 

 

2 日露戦争

⑴ 日露戦争

朝鮮半島や満州(中国東北部)をめぐる日本とロシアの関係は厳しくなり、1904年日露戦争が開戦します。

戦場は主として朝鮮と清の満州でした。特に有名な戦いは日本海海戦で、当時世界最強と言われたバルチック艦隊を迎え撃った日本の連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の指揮で圧勝し、世界を驚かせました。バルチック艦隊はバルト海を中心に展開していた艦隊で、ロシアの精鋭でしたが、長旅で疲れていたことや日本側の巧みな戦いに敗れました。

 

戦争中、日本では内村鑑三や与謝野晶子、幸徳秋水らによる反戦運動が起こりました。しかし与謝野晶子は家に石を投げられるなどいやがらせを受けた、と言います。日本国民の圧倒的多数は戦争に賛成でした。

 

⑵ ポーツマス条約

アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが仲立ちして日本とロシアの講和が行われました。講和会議を開いたアメリカの都市の名前をとってポーツマス条約といいます。ちなみにセオドア・ルーズベルトのあだ名をテディといい、ルーズベルト大統領のクマをめぐるエピソードからぬいぐるみのクマのことを「テディ・ベア」といいます。「テディのクマ」という意味です。

 

日本側の出席者は小村寿太郎です。条約改正でも出てきましたね。しっかり覚えてください。

 

ポーツマス条約が結ばれ、日本は南樺太・南満州鉄道(満鉄)を得て、韓国(朝鮮から大韓帝国と改称)への指導権を獲得します。

 

問題は賠償金を得られなかったことでした。これは仕方がありません。日本はかろうじてロシアに勝ったのであって、賠償金までは取れる状況ではなかったのです。ところが日本の悪いくせで、正しいことを伝えずにいいことばかりニュースで流します。日本人は高い税金を納めて国のために頑張っていたのです。ふたを開けてみれば賠償金がない、ということで戦争を続けるように求める集会が開かれました。ちなみに戦争を続ければ日本は負けることは外務大臣の小村寿太郎も総理大臣の桂太郎も分かっていたので、それは無茶振りというものです。持久戦になっては勝てないので、短期決戦でしっかりカタをつけ、妥協して交渉にゆだねる、という知恵はこれを最後に日本から消えてしまいます。多分どこかで「俺はすごい」と勘違いしてしまったのでしょう。

この不満が高まって日比谷焼打事件が起こります。

 

⑶ 韓国併合

日本はポーツマス条約で大韓帝国への指導権を得て、韓国統監府を設置し、初代統監に伊藤博文を任命しました。伊藤は韓国の外交権を取り上げます。それを国際社会に訴えようとした韓国皇帝が、当時万国平和会議が開かれていたハーグに使者を派遣し、日本のやり方を訴えようとしましたこれを「ハーグ密使事件」といいます。しかし日露間ではポーツマス条約が結ばれていたためロシアも相手にせず、ハーグ密使事件は失敗に終わりました。その結果皇帝は責任をとらされて退位に追い込まれ、伊藤は韓国軍を解散し、軍事権も失いました。

1909年、伊藤は満州のハルビンで韓国の安重根に暗殺され、その後1910年に韓国は日本に併合され、35年にわたって併合されました。韓国を朝鮮と改称し、朝鮮総督府を設置して日本陸軍による軍政が敷かれることになりました。

 

板書

1904年:日露戦争→東郷平八郎・日本海海戦でバルチック艦隊を破る

←与謝野晶子・内村鑑三・幸徳秋水らによる反戦論

1905年:ポーツマス条約←セオドア・ルーズメルト大統領による仲介、小村寿太郎

① 韓国への指導権→韓国統監府ー初代統監は伊藤博文

② 南満州鉄道(満鉄)の権利

③ 南樺太(北緯50度以南)を日本の領土へ

→賠償金なし、国民の不満→日比谷焼打事件

1909年:伊藤博文暗殺←安重根

1910年:韓国併合→朝鮮総督府の設置

 

 

 

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