歴史の大きな流れを押さえようー大正時代1

大正時代です。

大正時代のポイントは第一次世界大戦・大正デモクラシーの二つです。今回は第一次世界大戦について説明します。

 

第一次世界大戦と日本の関わりがメインですが、第一次世界大戦が世界史の問題なのでヨーロッパまで見通す知識が必要です。

 

1 第一次世界大戦と日本

 

第一次世界大戦の大きな原因については「帝国主義諸国の対立」というものが挙げられます。これを小学校向けのテキストで言えば「海外進出をめぐるあらそい」になりますが、要するに植民地をめぐる争いです。植民地を保有することが一流の国家としてのステータスだったわけです。

 

当時のヨーロッパではドイツとイタリアとオーストリアが三国同盟を組んでいました。一方それに対抗してフランスとロシアとイギリスが三国協商を結んでいました。当時帝国主義諸国(植民地を取ろうとする国のこと、列強ともいう)が世界各地を植民地化していきますが、その中でもイギリスは世界に先駆けて帝国主義化を進めてきました。イギリスの政策を3C政策と言います。「3C」とはインドのカルカッタ、エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウンのことでこれらを結んだ地域内の支配を目指します。それに対しドイツは少し遅れて帝国主義化を進めます。ドイツはドイツのベルリン、トルコのビザンチウム(イスタンブールのこと)、イラクのバグダッドを鉄道で結び、西アジアに勢力を広げていこうとします。世界地図があればそれぞれの都市を見つけてみてください。

 

1914年、サラエボ事件が起こります。オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しようとしていましたが、それに反発するセルビアとの対立が深まっていました。セルビアは二次にわたるバルカン戦争に勝利し、領土を拡張しつつありました。

 

オーストリア皇太子のフランツ・フェルディナンドがボスニアのサラエボを訪れた時、セルビア人青年が皇太子を暗殺し、オーストリアはセルビアに宣戦しました。

 

それに対しセルビアを支援していたロシアはセルビアを支援し、オーストリアに宣戦します。するとドイツはオーストリアを支援し、イギリス・フランスはロシアを支援し、さらに日本も日英同盟の関係でドイツ・オーストリアに宣戦します。イギリス・フランス・ロシア・日本などを連合国といいます。ちなみにイタリアはオーストリアと対立したため、最終的に連合国に参加します。

 

こうしてあちらこちらの国々が参加した結果、すぐに終わるはずのセルビアとオーストリアの戦争は世界に広がりました。これを第一次世界大戦といいます。

 

この戦争が拡大したのは技術の発達による新兵器が投入され、それが被害を大きくしたことが挙げられます。例えば飛行機・潜水艦・戦車・毒ガスなどが使われました。

 

日本は日英同盟のために連合国に参加し、ドイツの植民地であった中国の青島(チンタオ)や南洋諸島(グアム・サイパンなど)を占領し、さらに清が倒れる辛亥革命の余波の中でゴタゴタになっている中国に対して二十一か条の要求を突きつけ、無理矢理に受け入れさせました。この強引な政策は中国の人々の怒りを買うことになります。

 

アメリカは当初中立を守りましたが、ドイツの潜水艦がイギリス客船を沈没させ、その乗客に多くのアメリカ人が乗っていたことでアメリカ国内の反ドイツ感情が高まり、ドイツとアメリカも交渉しましたが、結局1917年にアメリカはドイツに宣戦し、戦争は連合国に有利になりました。

 

1917年、戦争に疲れたロシアで革命が起こり皇帝が処刑されて、ロシアは真っ先に戦争から離脱し、ドイツと単独講和を結びます。ドイツはこれでなんとかなるかと思われましたが、オーストリアで革命が起こり、最後にドイツでも革命が起こって皇帝が退位して第一次世界大戦は終了しました。

 

ロシアでは革命後、レーニンが率いるボリシェビキと呼ばれる勢力が権力を握り、世界で最初の社会主義国であるソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)を建国し、反帝国主義、反資本主義を唱え、のちの東西冷戦のきっかけとなります。

 

2 大戦後の世界

 

1919年、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議がフランスのパリのベルサイユ宮殿で開催されました。この時日本側の全権だったのは二度にわたり総理大臣を務めた西園寺公望でした。パリ講和会議の結果結ばれた条約をベルサイユ条約と呼び、ベルサイユ条約に基づく第一次世界大戦後の国際体制をベルサイユ体制と呼びます。

パリ講和会議ではアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが「ウィルソンの平和原則」と呼ばれる原則を発表していました。それは「国際連盟・無併合・無賠償・民族自決」というものでした。「国際連盟」とは国際社会を統治する組織を作って戦争ではなく国際連盟における話し合いなどを通じて解決しようとするものです。「無併合」というのは、植民地獲得競争が世界大戦を招いたことから、新しい植民地を作らせない、というものです。「無賠償」というのは、賠償金のために戦争はもうかると考えたり、賠償金を払わされることによってその国が苦しくなり、うらみもかって新しい戦争を用意する可能性を考えたものです。「民族自決」はそれぞれの民族のことはその民族が決める、というものです。端的に言えば植民地の否定です。

パリ講和会議ではウィルソンの平和原則は相手にされませんでした。ただウィルソンの提言の中で国際連盟のみが実現しました。

 

1920年、国際連盟が発足しました。本部はスイスのジュネーブに置かれ、日本は常任理事国になり、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が国際連盟事務局次長になり、日本はベルサイユ体制において大きな地位を占めることになりました。

しかし国際連盟は言い出しっぺのアメリカが参加しませんでした。ウィルソンの方針はアメリカ議会で否定されたからです。そしてソ連とドイツは最初から呼ばれませんでした。世界の大国の不参加は国際連盟にとって大きな課題となりました。また国際連盟は総会で決めるのが全会一致であったために、話し合いがなかなか決まらず、あまり機能しませんでした。また国際連盟に反し、国際平和を乱す国に対して武力制裁が不可能で、経済制裁しかできないため、世界平和を乱して隣国を侵略する国が現れた場合、対処できない、という問題点がありました。この辺は国際連合を学ぶ時に比較して再び習います。

 

1921年、アメリカの首都ワシントンでワシントン会議が開かれ、戦後のアジア太平洋地域の枠組みが話し合われました。その結果日英同盟は日本・イギリスにアメリカとフランスを加えた四カ国条約となりました。中国に関してはアメリカ・イギリス・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中国の九カ国条約が結ばれ、「門戸開放・機会均等・主権尊重」の原則が定められました。

 

ワシントン会議ではワシントン軍縮会議が開かれ、主力艦(戦艦など)の制限などが盛り込まれ軍縮が進められます。

 

四カ国条約・九カ国条約・ワシントン軍縮条約の三本柱からなる国際協調体制をワシントン体制といい、ワシントン体制を支えた日本の外交政策を、当時の外務大臣幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)にちなんで「幣原外交」といいます。

 

アジアでは民族自決の運動が広がります。

インドではマハトマ・ガンジーの「非暴力・不服従」運動によるイギリスからの独立運動が広まります。また中国では21か条の要求への反発として1919年5月4日に五・四運動が、朝鮮では日本の植民地支配への反発として三・一独立運動が起こります。

 

次回は大戦後の日本の動きを、大正デモクラシーを軸に説明します。

 

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