歴史の大きな流れを押さえようー明治時代3
「歴史の大きな流れを押さえよう」シリーズ、明治時代3です。
これの続きです。
今回は条約改正の流れを押さえておきますが、それ以前に大きな見取り図を見ておきます。
1894年治外法権の撤廃
1894年日清戦争
1904年日露戦争
1911年関税自主権の回復
こういう形になります。つまり日清・日露戦争が条約改正にはさまれている形になります。これをきっちり理解するにはアジアの大きな動きを理解しないとうまく理解できません。近代では常に世界史の動向を押さえておくことがポイントになります。
1 不平等条約の改正
⑴ 岩倉使節団の欧米派遣
征韓論が出てきたころ、新政府の最高責任者の岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らが日本にいない間、留守政府の西郷隆盛・板垣退助らが征韓論を主張して、帰ってきた岩倉らにつぶされて下野した、という話をしました。
岩倉たちは何をしていたのでしょうか。
これを理解し、さらに条約改正を理解するために覚えておかなければならないことがあります。不平等条約です。不平等条約とは何か、もう一度復習しますと、日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約は「治外法権を認める」「関税自主権がない」という点で不平等でした。明治政府は治外法権をなくすことと関税自主権の回復を目指すことになります。ちなみに「治外法権」は具体的には外国人の所属する国の領事が裁判をする権利であることから「領事裁判権」ともいいます。
1871年、新政府の最高責任者である岩倉具視を全権大使とした岩倉使節団をヨーロッパやアメリカに派遣し、条約改正を交渉しました。もちろん拒否されました。はっきり言えばバカにされていたのです。近代的な法体系もない日本に裁判をやらせたらどうなるか、基本的人権という概念が作られつつあった当時の欧米からすれば、恐怖でしかありません。それはわかります。
ちなみに治外法権は日本にとってもメリットがあります。なぜ治外法権、つまり外国人は出身国の法律で裁かれる権利を認めているか、と言えば、そもそも外国人が日本のあちらこちらに住んでいる、ということがないわけです。あくまでも外国人居留地があり、そこを中心に生活しているため、居留地内で起きた事件は居留地を管理している領事館という外交施設で裁判をした方が話が早い訳です。逆に言えば治外法権を撤廃することは、外国人の自由な居住を認めることになり、その辺も含めて日本国内でも議論になっています。
まあ、とりあえず岩倉らが欧米諸国にバカにされたことは岩倉や大久保や木戸にもよくわかりました。そこで政府は考えました。要するに日本も文明的であることを示せばいいのです。実は国会開設の勅諭というのもこの動きとも関係があります。
板書
1871年、岩倉具視らの岩倉使節団を欧米に派遣→不平等条約の改正の交渉→失敗
不平等条約
①治外法権(外国人を日本の法律で裁けない=領事裁判権)を認める
②関税自主権がない
⑵ 明治初年のアジアとの関係
当時のアジアは清を中心とするアジア的な国際秩序が作られていました。日本はそこに西洋の国際秩序を持ち込んで行こうとしました。
まずは1871年に清との間に「日清修好条規」を結びました。これは日本が外国と結んだ初めての対等条約です。これは日本にとっては大きな前進でした。当時はなんだかんだ言って清は大国であり、大国である清が日本を対等と認めたのは大きな進歩です。日本も清から対等と認められたのです。
1875年、日本は朝鮮に軍事的圧力をかけます。征韓論はつぶされましたが、別に岩倉らが「平和が大事だ」と考えていたわけではありません。西郷らの下野によって征韓論は中止されたのではなく延期されたのです。朝鮮が近代化した日本を認めず、国交を持とうとしなかったため、日本は2隻の軍艦を朝鮮に派遣し圧力をかけます。これを江華島事件といいます。この結果朝鮮でも開国派が力を持ち、朝鮮と日本の交渉が始まりました。
1876年、日本は不平等条約である「日朝修好条規」を朝鮮との間に結びました。具体的には治外法権を認めさせ、関税自主権を認めませんでした。
朝鮮はそれまで清の強い影響下にありました。「属国」という言い方もされますが、厳密ではありません。ただわかりやすく言えばそういう言葉になる、と言えばなります。
しかし日朝修好条規ではわざわざ「朝鮮は独立国である」と決められています。清の影響から朝鮮を引きはがそうとしたのです。この後朝鮮と日本と清の関係は難しいものとなります。
板書
1871年:日清修好条規(対等条約)
1875年:江華島事件←日本による朝鮮への圧力
1876年:日朝修好条規
⑶ 鹿鳴館外交
岩倉使節団は失敗しましたが、それは外国にバカにされているからでした。
そこで外務卿(外交の責任者、現在の外務大臣)の井上馨(いのうえかおる)は考えました。
「そうだ!日本も文明国であるところを見せればいいんだ!」
そこで井上は欧米風のパーティ会場を作り、そこで華やかなパーティを行えば日本も文明国にとして認められるかもしれない、と考えます。なんかズレている気がしますが、まあいいです。
こうして1883年、「鹿鳴館(ろくめいかん)」が完成し、西洋諸国の外交官とその家族を読んで西洋風のダンスパーテイを行いました。しかし急に洋風のマナーやエチケットが身につくわけもなく、腹の底では井上馨を除く誰もが「あほくさ」と思っていたでしょう。
一方、政府の西洋化に反対する人々は鹿鳴館に反発します。さらに井上の条約改正案に外国人を裁判官にする、という計画があることが分かると井上に対する非難の声が大きくなりました。
板書
1883年:鹿鳴館→井上馨による鹿鳴館外交による条約改正を目指す→失敗
⑷ ノルマントン号事件
1886年、和歌山県沖でイギリスの船のノルマントン号が沈没しました。イギリス人船員は全員がボートで脱出したのに、日本人乗客は全員死にました。
当時は第一次伊藤博文内閣が発足した直後で、外務大臣の井上馨は調査を命令します。国内世論は当然イギリス船長の人種差別の結果日本人が犠牲になった、と考えました。
神戸の駐日イギリス領事(外交官)は治外法権=領事裁判権に基づきイギリスの法律で船長の裁判を行います。その結果船長が主張した「ボートに乗れ、と言ったが、言葉が通じず、船から逃げようとしなかったので日本人を置いて逃げた」という意見を採用し、船長は無罪となりました。その後日本からの抗議でやり直して軽い刑で済まされたため、井上外交に対する非難が高まり、井上馨外務大臣は辞任に追い込まれました。
ちなみに井上馨外務大臣の後を継いだ大隈重信外務大臣は国粋主義者による爆弾テロによって右脚切断の重傷を負うことになり、条約改正の動きは一時中断されます。
板書
1886年:ノルマントン号事件→治外法権(領事裁判権)の撤廃の声が高まる
⑸ 条約改正の成功
1894年、日清戦争の直前のことです。外務大臣「陸奥宗光」はイギリスと交渉して「領事裁判権の撤廃」を盛り込んだ新たな条約を結ぶことに成功しました。「日英通商航海条約」といいます。
陸奥宗光
イギリスがそれまで強く反対してきた領事裁判権の撤廃に応じたのは、当時ロシアが南に進出してきており、イギリスとしては日本を味方としておきたかったからです。むしろ日本国内の法律の整備という面が大きいとも言われますが、イギリスとの関係を覚えておいた方がいろいろと応用が利きます。
続いて日本はアメリカ・フランス・ロシアなど十四カ国と同様の条約を結びました。
その後日本は日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)に勝利し、さらに台湾・朝鮮の植民地化に成功したこともあって「列強」(強い国のこと)とみなされるようになりました。社会科学の用語では帝国主義化した、といいます。帝国主義とは植民地を持ち異民族を支配する国のことです。
憲法を制定し、立憲主義にたった国づくりと戦争に勝ち、列強入りした日本は諸外国との条約改正の交渉に臨み、1911年、外務大臣小村寿太郎がアメリカとの間に関税自主権を盛り込んだ「日米通商航海条約」を結んで関税自主権を回復しました。その後諸外国とも同じ取り決めを行い、日本は名実ともに独立国となって列強と対等な国際関係になりました。
板書
1894年:イギリスとの間に治外法権撤廃←陸奥宗光
1894年:日清戦争
1904年:日露戦争
1910年:韓国併合
1911年:関税自主権回復←小村寿太郎