江戸幕府の政治1 徳川綱吉の政治
基本的にはまずは三大改革を中心にその前後をしっかり流れを押さえることが重要です。そのあとで農業の発展や学問や文化を押さえていきましょう。
本日は三大改革を押さえていきましょう。
目次
1 綱吉政治
2 正徳の治
3 三大改革⑴享保の改革
4 田沼意次の政治
5 三大改革⑵寛政の改革
6 大御所政治
7 三大改革⑶天保の改革
1 綱吉政治
家康ー秀忠ー家光ー家綱まではまっすぐ子孫がつながりましたが、家綱には嫡男が生まれず、弟の綱吉が5代目将軍になります。
徳川綱吉は生類憐れみの令というアホな命令を出した「犬公方」として現代に伝わっていますが、近年ではそのような見方は少しずつ見直されており、今年の中学入試のテキストでも生類憐れみの令については批判的な見方は影をひそめています。
まずは綱吉という人物を物語るエピソードがあります。綱吉の側近は柳沢吉保という人物ですが、彼に仕えた儒者が荻生徂徠(おぎゅうそらい)という人物でした。彼の学問は古文辞学と呼ばれ、当時中心だった朱子学のように朱熹(しゅき)という人物の解釈を通じて孔子を理解するのではなく、直接孔子の著作を、それも古典中国語の発音で読んでこそ意味がわかる、という考えでした。だから徂徠と吉保と綱吉は古典中国語で議論しあったのです。おそらく歴代徳川家の中でもずば抜けて才能があふれていた人物であることは間違いがありません。
当時の世の中はまだ戦国の気風が残り、武士が平気で一般の人々を面白半分に切り捨てる時代でした。そして喧嘩両成敗、つまり喧嘩を売られた方も罰せられるのです。それはおかしいと綱吉は考えていたことでしょう。
綱吉の在任中にある事件が起こります。綱吉の母が朝廷から位をもらった時のことです。それを伝える勅使を接待する役目の赤穂藩主浅野長矩(あさのながのり)がその指導役で高家肝煎(高家という儀礼を担当する旗本の一番偉い人)だった吉良義央(きらよしひさ)に斬りつけます。取り押さえられた長矩は「恨み思い知ったか」と叫んで切りつけましたが、義央は「身に覚えがない」と証言しました。
面目丸つぶれの綱吉はカンカンになって長矩に切腹を命じます。さらに赤穂藩を改易処分とします。しかし赤穂藩の国家老であった大石良雄(おおいしよしかつ)はその処分に不満を持ちました。要するに吉良に処分がなかったのが気に入らなかったのです。赤穂藩が取りつぶされたため、浪人となった赤穂藩士(赤穂浪士)は47人で吉良邸に討ち入ることにしました。
良雄らは吉良邸に討ち入り、義央の首を長矩の墓前に備えた上で出頭しました。この時、人々は赤穂浪士の忠義をたたえ、赤穂浪士を救うべきだ、いや、うちの藩に来て欲しい、という騒ぎになりました。しかし徂徠の意見は「法を破ったものは死罪、ただし気持ちはわかるので死罪ではなく切腹にするべき」と主張し、結果徂徠の主張通りになりました。これは徂徠の意見がそのまま通ったかどうかは微妙で、単に徂徠が著作で主張していたことが、そのまま実現したのであり、どこまで徂徠の意見が入っていたかはわかりませんが、綱吉自身が徂徠の影響を受けている以上、徂徠と同じことを綱吉は考えていたでしょう。
これで綱吉の評判はかなり悪くなっています。
さらに綱吉の後世の評判を下げたのが生類憐れみの令です。犬を大事にしなさい、という話ですが、もともとは将軍の御成の時に犬をしばらなくてもよい、という命令だったようです。他に捨て子を見つけたら届けるよりも先に保護しなさい、とか、今日から見てもまともな項目が並んでいます。
綱吉は戦国の生き残りのような、人の生命を軽んじて当たり前という風潮をなくしたかったのではないか、と考えられています。事実綱吉の治世以降、人々は気軽に殺人を犯さなくなります。「最近の若いものは人殺しをしない」という年寄りの武士の嘆きが今日に残されています。あの水戸黄門こと徳川光圀も若い頃、おつきあいで人を斬り殺す遊びをやっています。光圀はさすがに嫌がっていたようですが。「おまえ、付き合い悪いぞ、人殺しゲームしねぇのかよ」というものでしょう。綱吉はそういう野蛮な風習を改める、壮大な人心改造プロジェクトを実現させた、という評価もあります。
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では綱吉はなぜそんなに悪い評判を建てられたのでしょうか。
一説では綱吉の次の将軍になった甥の家宣が綱吉とは比べ物にならない凡庸な(あまり賢くない)将軍で、家宣に仕えていた新井白石が面白くなかったこと、さらには白石が仕えていた堀田正俊が晩年には綱吉と対立していたことなどが原因として考えられています。
続きはまた明日以降。
2 正徳の治
3 三大改革⑴享保の改革
4 田沼意次の政治
5 三大改革⑵寛政の改革
6 大御所政治
7 三大改革⑶天保の改革