江戸時代の政治2 正徳の治

綱吉の政治について前回説明しました。

江戸幕府の三大改革

 

今回はその続きで正徳の治と享保の改革をみていきます。

 

ちなみに細かい年表形式の教材があったりしますが、そこの細かい年号をいちいち覚えようとする前に、やっておきたいことがあります。それはそれぞれの前後関係をある程度頭に入れておくことです。何も考えずに無理やり頭に入れても忘れてしまいます。

 

1 正徳の治

正徳の治とは、6代将軍徳川家宣と7代将軍徳川家継に仕えた新井白石の政治です。

家宣の主な実績としては生類憐れみの令の廃止が挙げられます。

それから貨幣の質を元に戻す、というのもありますが、これは前回説明し忘れていたことと合わせて説明します。

これは綱吉の時代の説明で「質の悪い貨幣の発行→経済混乱」というのがなされます。ただ当時の勘定奉行の荻原重秀(おぎわらしげひで)の政策を新井白石がバッサリ切ったことで、重秀と綱吉が悪者にされ、それが現在の教科書にも繋がっている側面はあります。

徳川綱吉の時代になりますと、金・銀の産出量が減り、その一方で経済発展によって貨幣が足りなくなりはじめていました。重秀はその対策のためにそれまでの慶長小判に変えて元禄小判を新たに発行しました。慶長小判に比べて金の割合が減ったために元禄小判は慶長小判よりも多く出回り、貨幣が多く出回りました。これについては重秀の政策が数百年を先取りした非常に画期的なもの、という評価もあります。

実際重秀のこの元禄小判によって元禄年間には好景気となり、元禄文化が栄える原因ともなりました。

 

しかし重秀、そして綱吉にとって不運なことに富士山が噴火し、社会は混乱し、綱吉、そして重秀はその責任を負わされることになりました。また貨幣の作り変えを繰り返し、当初は好景気をもたらした貨幣の流通も増えすぎて深刻な物価の上昇を招いてしまいました。綱吉の死後、重秀は白石によって追放され、一説では自殺したとも言われています。

 

白石は重秀、そして綱吉の政策を全面的に改めます。貨幣の質を元にもどしました。しかしそれは貨幣の流通量を減らすことになり、景気は一気に悪くなります。

 

また白石は当時の長崎貿易で日本の輸入が多すぎるために金銀が海外に出ていくことを問題視しました。そこで長崎貿易を制限します。さらに白石は輸入品であった生糸や絹織物、綿布などの国産化を進めます。

 

白石は家宣の死後急速に影響力を失い、家継が幼いまま死んだことで紀州藩から徳川吉宗を迎えることになり、白石は幕政から去ることになりました。

 

次は徳川吉宗による享保の改革を見ていきます。

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