江戸幕府の成立と鎖国

徳川家康です。三河国(愛知県東部)の小大名の出身で、幼少時から織田家や今川家で人質として生活していましたが、桶狭間の戦い後に独立し、織田信長や豊臣秀吉の天下統一に協力する中で力を蓄えて行きました。

 

三河国の守護は四職の一つの一色(いっしき)家ですが、一色家は丹後国(京都府北部)の統治に専念することになり、三河国は守護がいなくなり、国人と呼ばれる地元の有力者が力を持ちます。中でも三河国を統一しかけたのが三河安城付近を本拠とし、のちに岡崎城に入った松平清康でした。しかし清康は家臣に暗殺され、その子の広忠はまだ若く、三河国は隣国の尾張国の守護代の織田氏と駿河国の守護で遠江国も奪い取った今川氏の草刈り場となります。

松平広忠は結局今川氏につくことで生き残りを図った、ということになります。

 

目次

1 徳川家康による天下統一

2 江戸幕府の大雑把な仕組み

3 身分制度と庶民のくらし

4 江戸時代の外交

1 徳川家康による天下統一

秀吉の死後、豊臣政権の主導権をめぐって争いが起こり、最終的に徳川家康石田三成の争いとなります。1600年に関ヶ原の戦いが起こりました。東軍の家康が勝利し、1603年には征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開きました

 

実は関ヶ原の戦いでの豊臣秀頼の立場は、あくまでも家来同士の争い、というものでした。家康が征夷大将軍になっても秀頼は将来武家関白として政権を掌握する可能性はあったのです。家康は朝廷と交渉して九条兼孝を関白に就任させ、秀吉が作り上げた武家関白制をつぶしました。

 

ただ家康は秀吉びいきの後陽成天皇(ごようぜいてんのう)には手を焼いたようです。後陽成天皇は自分の後継者に秀吉の養子となったこともある自分の弟の八条宮智仁親王(としひとしんのう)を次の天皇に考えていました。智仁親王は秀吉の後継者として豊臣家を継ぐ予定だったのです。その予定は鶴松や秀頼が生まれたことでなくなりましたが、秀吉は智仁親王とその兄の後陽成天皇を非常に大事にしました。

家康は豊臣家の権威上昇には最大限の警戒をします。そして方広寺の鐘に「国家安康」と書かれていることに対して「家と康を切り離している」と難癖をつけ、秀頼に大坂城を出て大和郡山城への転封を受け入れるか、淀殿を江戸に人質として送るかを選ばせます。しかし淀殿と秀頼はそれを拒否し、大坂冬の陣となります。大坂城の堀を埋め立てた上で改めて大和郡山への転封と集めた浪人を解散させることを要求しますが、決裂し、大坂夏の陣が始まります。

家康はどうも徳川幕府のもとにおける一大名として生き残る道を提示したようですが、豊臣サイドがそれを拒否したようです。

 

ちなみに関ヶ原では北政所と淀殿の争いだ、と言われたりしますし、実際北政所の関係者である加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政らが東軍に参加し、さらに彼女の甥の小早川秀秋が最大級の働きをしていますが、彼女自身は関ヶ原の戦いが終わった直後にパニクって裸足で後陽成天皇の母親の元に逃げ込んでいますから、西軍に味方していた、というのが正しいでしょう。近年の研究では淀殿との関係はよかったようですし、三成とも信頼関係を結んでいます。

ただ北政所は大坂の陣に至る豊臣家の強気の交渉方針についていけず、豊臣家の滅亡を黙って見ているしかなかったのでしょう。

 

2 江戸幕府の仕組み

江戸幕府の仕組みは将軍老中が政治を行う形でした。実際に自分の意見通りに政治を行えたのは初代の家康、2代目の秀忠、5代目の綱吉、8代目の吉宗、15代目の慶喜くらいでしょう。将軍は自分の思い通りには政治を運営できません。一人の権力者の思いつきで振り回されるようなシステムでは長期間にわたり日本を統治することはおぼつかないでしょう。

老中は四人いて、輪番制で政務を担当していました。重大なことが起きた場合には老中全員で話し合って決めました。その中でも責任者は一人いて、首座老中と呼ばれていました。松平定信や水野忠邦は当時の首座老中であって、彼ら以外にも老中はいました。老中は親藩や譜代のあまり石高の高くない小大名が任命されました。

老中では手に負えない非常事態には大老が設置されます。大老は酒井家、堀田家、井伊家に限定されました。土井家も一応大老になれる家でしたが、実際には土井利勝一人でした。大老はのべ十三人いましたが、過半数の7人が井伊家から出ています。

 

上で「親藩」とか「譜代」と書きましたが、将軍の直接の家臣のうち、1万石以上の家臣を「大名」といい、1万石以下を「旗本」「御家人」と言います。「旗本」は将軍に御目見得(将軍に面会すること)を許され、「御家人」は許されませんでした。

大名のうち、将軍の一族を「親藩」と呼び、基本的には松平を名乗りました。もっとも当時の大名はみんな松平を名乗ることになっていましたが。松江藩と高松藩と福井藩と会津藩が有名です。親藩の中でも紀伊(和歌山県)、尾張(愛知県西部)、水戸(茨城県)の三つの家は特別に「徳川」の苗字を名乗ることを許され、御三家と言われていました。その御三家の中でも水戸藩の藩主は江戸にずっと滞在しており、「副将軍」と呼ばれていました。水戸藩の藩主は中納言になっていましたが、中納言を中国風にいうと「黄門」と呼ばれました。「水戸黄門」というのは水戸藩の藩主のことです。

水戸黄門のモデルの徳川光圀は安積格之進(あさかかくのしん)と佐々介三郎(さっさすけさぶろう)という人物に歴史の研究をさせ、『大日本史』を編纂させますが、それが諸国をめぐって世の悪を正す正義の見方としてドラマ化されたのが「水戸黄門」です。

 

徳川氏に三河時代から付き従っていた大名を「譜代」と呼びます。老中や若年寄などの幕府の要職は譜代が中心でした。近畿や東海、江戸周辺など重要なポイントに配置され、山陽には大きな石高の譜代が置かれて幕府を助けることが期待されていました。

 

徳川氏が天下を統一してから徳川氏に従うようになった大名を「外様」といいます。最大の大名は加賀(石川県)の前田氏でした。100万石の石高を誇っていましたが、幕府の直轄地は400万石あったので、前田氏も何もできません。

大きい大名は大体遠くに置かれています。島津氏(鹿児島藩)、細川氏(熊本藩)、伊達氏(仙台藩)が50万石を超える大大名です。彼らは石高別にランクづけられますが、幕政に参加することはありません。この原則を覚えておくと幕末維新のややこしい話がすっきり整理できます。

 

大名統制の要は武家諸法度と参勤交代です。

 

武家諸法度徳川秀忠の時に定められました。この法度に背くと改易(お取りつぶし)、減封(石高を減らされる)、転封(領地を移される)などの処分が下されることになりました。

武家諸法度は徳川家光の時に参勤交代の制度が加えられます。参勤交代とは、大名の妻子を江戸に人質としておいて、大名本人は江戸と領地を一年ごとに交代して住むことです。領地と江戸の間は大名行列を作って往復するのですが、これも細かく人数が決められており、ケチることは表向きはできませんでした。前田氏の場合は4000人にも上ったようです。

 

3 身分制度と庶民のくらし

「士農工商」という厳しい身分制度が定められ、武士とそのほかは厳しく分けられていました。

ということが言われており、実際に身分制度は存在しましたが、実は「士農工商」という言い方は後世のもので、江戸時代の正しい身分制度ではないそうです。そのせいか、最近の教科書でも「士農工商」という言葉は使わなくなりつつあります。

 

武士は苗字を名乗り、刀を差すことを認められていました(苗字帯刀)。これは明治維新のところで再び出てきますので、これだけは覚えておきましょう。

 

農民の生活の決まりに関しては慶安の御触書が有名ですが、これが実際に出されたのかどうかは議論になっています。現在残っている慶安の御触書は甲府で出されたものであって、これが全国的に出されたか、と言われると疑問があるようで、近年では出ないことも多くなりました。

 

4 江戸時代の外交

⑴東南アジア・西洋との外交

16世紀の外交関係はキリシタンを禁止するか、貿易の利益を取るか、というバランスです。秀吉と同じく家康もキリシタン禁令よりも貿易の利益に着目してキリシタンに関しては見ないふりをする、という方針でした。

 

このころには日本人も東南アジアに積極的に交易に出かけるようになりました。秀吉や家康の出す貿易許可証の朱印状を与えられた船を朱印船と呼びます。こうして東南アジアの各地に日本町が形成されました。

 

「南蛮人」(スペイン人・ポルトガル人)に加えて16世紀最末期には「紅毛人」(イギリス人・オランダ人)がやってきます。背景としては私掠船(いわゆる海賊)のフランシス・ドレークが世界一周を成し遂げ、またスペインと対立していたオランダがジャワへの航路を開拓し、それに刺激されたイギリス東インド会社が設立され、それを追いかけるようにオランダ東インド会社も設立されて、イギリスとオランダのアジア進出が活発化します。

そのような中、来日してきた有名なオランダ人がヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインであり、イギリス人がウイリアム・アダムズでした。彼らは家康の外交の相談役として活躍します。ヨーステンは「耶揚子(やようす)」と名乗り、現在の八重洲の語源となっています。またアダムズは「三浦按針」と名乗ります。

彼らはリーフデ号という船に乗って来日しましたが、このリーフデ号はすごい航路をたどってやってきています。オランダのロッテルダムを出港したリーフデ号を含む5隻の艦隊は南米大陸南端のマゼラン海峡を抜けて太平洋からアジアを目指します。いや、それ、めっちゃ遠回りでしょう。普通に喜望峰(アフリカ大陸の南端)を回ってこいよ、と思いますが、ポルトガル・スペインとの関係があったのでしょうか。

結局一隻になったリーフデ号は何とか九州にたどり着きますが、日本に漂着した時には110人の乗組員が24人に減っており、さらに日本到着後に7人が死んで、最終的に生き残ったのは14人で、彼ら全員が日本に定住し、誰も帰国しませんでした。気持ちはわかります。

 

⑵朝鮮との国交回復

家康の抱えた問題は朝鮮との国交回復でした。朝鮮側は当然謝罪を求め、朝鮮国王の墓を掘り出して宝物を奪っていった犯罪者の引き渡しを求めます。また連行された朝鮮人の帰国を求めます。しかしこれは実際には不可能でした。

というのは、墓を暴いた犯罪者というのが大名だったりするわけです。また家康からすれば「秀吉がしたことだから、わしは関係ない」と思っていたでしょうから、謝罪も無理でした。連行された朝鮮人も、日本での生活が長くなり、そこで家族ができたりすると帰れません。また中には奴隷になってしまった人もおり、そういう場合は奴隷の持ち主との交渉が問題になります。希望者は帰国させますが、全員の帰国は無理です。

こういうデリケートな問題の板挟みになったのが、室町時代から朝鮮と日本の関係をつないできた対馬の宗氏です。宗氏は家康の国書を偽造します。つまり謝ったことにしたのです。そして宗氏が逮捕していた犯罪者を朝鮮に送りつけてごまかしました。朝鮮側も日本側がインチキをしているのはわかっていたでしょうが、そこはお互いさま、交渉担当者の間でうまく話をつけたようです。

朝鮮とは江戸時代を通じて唯一の国交関係を結ぶことになります。「日本国王」(徳川将軍)の代替わりごとや節目節目に朝鮮通信使がやってきました。

 

⑶鎖国

鎖国とは限られた国とのみ外交関係を持つことをいいます。これは何となく日本独自のイメージがありますが、実際には当時の東アジアに広く見られた体制であり、国を閉鎖する、というイメージの強い「鎖国」という言葉よりは、最近では「海禁体制」と呼ぶことが多いです。ただ受験用の言葉としては全く定着していませんので、中学入試・高校入試では忘れた方が無難です。ただ知識の定着と再現ではなく、発想や表現力が試される、これからの教育に対応するためには、「海禁」(貿易の管理)とか「華夷秩序」(国際的な秩序)という言葉も知っておいた方がいいかもしれません。現在の学界では「海禁・華夷秩序」と呼び、日本のいわゆる「鎖国」を「日本型海禁・華夷秩序」と呼んでいます。

海禁秩序をもう少し詳しく言えば、国家が貿易を一元化して諸勢力の自由な通交を厳しく制限するものです。江戸幕府の場合、江戸幕府以外の諸大名が自由に外国と通航する状態は望ましくありません。

 

まずイギリスですが、イギリスの場合は日本側の意向ではなく、オランダとの競争に敗れたことが原因で日本を去ります。したがってこれは鎖国とは基本的に関係がありません。

 

日本型海禁体制(以下中学受験向けに鎖国としておきます)の始まりは1624年スペイン船の来航禁止です。このころオランダ(厳密にはネーデルラント)はスペインの支配下にあり、独立戦争を戦っている最中でした。そのオランダが幕府にスペインとポルトガルの危険性を説明したことも大きいようです。スペイン船だけになったのは、ポルトガルが明と関係を持っており、明との貿易を進めるためにはポルトガルの力が必要だったからでした。一方スペインはもともとアジア地域にはそれほど熱心ではなく、撤退しても日本側に大きな影響がなかったことが大きいようです。

 

1633年、朱印状だけでなく、老中奉書を所持することが海外渡航の必須要件となります。「神君」つまり神となった徳川家康の発行した朱印状を取り消すわけにはいかなかったため、老中奉書とセットにすることで事実上朱印状の効力を取り消しました。これは中学受験には多分出ませんが、高校受験あるいは大学受験には出てきます。

 

1635年、幕府は海外渡航を禁止し、また海外に在住する日本人の帰国を禁止します。

 

1637年には島原・天草一揆が起こり、ポルトガルとの関係を断絶することを決定します。オランダが明に交易拠点を築いたことと、ポルトガルに対する日本側の貸付金の回収が終わったことでポルトガル船来航禁止1639年に決まりました。

 

1641年、平戸にあったオランダ商館をそれまでポルトガルが使用していた出島に移し、オランダとの関係を長崎奉行の管理下において鎖国が完成することになりました。

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