豊臣秀吉の統一事業

豊臣秀吉の統一事業です。最近では「豊臣秀吉」は「とよとみ-の-ひでよし」と「の」を入れることが多いです。というのは「豊臣」というのは「源」とか「藤原」とか「平」と同じものだからです。我々は「藤原義孝」には「ふじわら-の-よしたか」とか、「源頼朝」は「みなもと-の-よりとも」とかつけます。「豊臣」も「藤原」と同じなので「とよとみ-の-ひでよし」と呼びことになっています。

 

したがってしばしば言われている「羽柴秀吉」から「豊臣秀吉」に変わった、というのは不正確です。彼は最後まで「羽柴秀吉」でした。

 

「羽柴」というのは「足利」と同じです。「足利」も「羽柴」も苗字です。足利義量(あしかがよしかず)という室町幕府5代将軍がいます。彼は正式な場では「源義量」(みなもと-の-よしかず)と名乗ります。

 

目次

1 天下統一まで

2 外国との関係

3 兵農分離

4 朝鮮出兵

1 天下統一まで

秀吉はよく知られているように非常に身分の低い百姓の子として生まれました。彼の若い頃の人生はいろいろな逸話がありますが、実際のところははっきりとは分からない、というのが実情です。極端な話、「木下」という彼の苗字すら結婚後に妻のねねのゆかりの苗字であって、結婚まで苗字すら持てない身分だった可能性も指摘されています。

ともかく彼が他の戦国大名とはレベルの違う低い階層の出身だったことは事実で、その上昇の凄まじさは、十年間のホームレス生活を経て皇帝にのし上がった明の太祖洪武帝の朱元璋に匹敵するでしょう。

よく戦国の三英傑の織田信長や徳川家康と比べられますが、秀吉の場合は前の二人と比べると圧倒的に苦労しているはずです。ちなみに家康の苦労人ぶりはよく言われますが、今川家の人質というのは、大名の子弟が若い頃に今川義元のもとで修行するわけで、人質仲間には今川家と深い同盟関係を結んでいた北条氏の北条氏規や、その姉妹の早川殿も事実上の人質だったわけで、太原雪斎に学問を見てもらったり、生活に何不自由なく武芸や帝王学を学べたのですから、秀吉とは比べるのも失礼なほどいい生活だったはずです。

 

秀吉ではっきりしているのは今川氏の家来の松下嘉兵衛之綱に仕えていたあたりからで、なんらかの理由で松下家を出て織田家に仕えることになったあたりから彼の人生ははっきりしてきます。松下之綱は今川家滅亡後は徳川家康に仕えたのちに、秀吉の家臣となり、最終的には一六〇〇〇石の大名となります。実際には之綱は秀吉と同年輩で、秀吉が仕えていたのは厳密には嘉兵衛の父の長則であると思われます。

 

秀吉の運命の開き始めは足軽頭の浅野長勝の養女のねねと結婚したことです。

 

信長の京都進出後、明智光秀と一緒に京都市政を任されるなど頭角を現し、やがて長浜城の大名となって信長の重臣となります。

 

本能寺の変で明智光秀を倒して信長の後継者の地位を確保し、清洲会議後の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し、小牧長久手の戦いで徳川家康を配下に入れ、1583年には大坂城に本拠を定めます。

秀吉の政治の特色は朝廷の仕組みを丸ごと自分のために使うことで、秀吉自身は内大臣から左大臣を経て関白太政大臣として天下に臨みます。

ちなみに秀吉は源氏ではないから征夷大将軍になれなかった、という説がありますが、実際には朝廷からの打診を断っており、俗説でしかありません。そもそも「征夷大将軍となって幕府を開けるのは源氏のみ」というのがガセネタです。本気にしないでください。

秀吉は藤原氏と並ぶ摂関家として豊臣氏を立てたわけです。源氏などに関心はなかったとされています。この辺は信長もそうです。彼も征夷大将軍任官の打診を断ったのではないか、と見られています。この二人にとっては征夷大将軍は魅力的ではなかったのでしょう。

1590年の北条氏攻めで天下統一が完成した、とされます。これは秀吉が「勝手に戦争してはいけない」という「惣無事令」を出したことに対し、北条氏政が違反して秀吉に滅ぼされたから、とされています。

 

2 外国との関係

秀吉は当初はキリスト教には協力的でした。しかし九州征伐の時に、九州ではキリシタン大名が神社や寺院を破壊していること、日本人を奴隷として海外に輸出する事業にポルトガル人が関わっていたことが問題視され、秀吉はバテレン追放令を出します。ただキリシタン禁止を取るか、貿易の利益を取るか、という問題に対して秀吉は貿易優先で、キリシタンに関しては黙認という姿勢でした。

しかしポルトガルの没落とスペインへの併合によってフランシスコ会も布教に加わります。そのような中、フィリッピンからメキシコに向かっていたスペインのガレオン船のサンフェリペ号が嵐で遭難し、長宗我部元親の所領の土佐国に漂着します。その時のトラブルが発端となって秀吉の態度は硬化し、秀吉は京都にいたキリシタン二十六人を捕らえ、長崎に送って処刑します。サンフェリペ号自体は秀吉の許可によって修繕され、フィリッピンに帰ることができました。

ちなみにサンフェリペ号の姿はこんな感じです。

アマゾン:サンフェリペ号模型

 

3 兵農分離

大雑把にいいますと太閤検地と刀狩りを合わせて「兵農分離」と言います。

太閤検地は土地の取れ高や耕作者などを測って記録する事業で、土地を耕作する権利と年貢を納める義務をセットにしたものです。これによって一地一作人の原則が作られ、荘園制は完全に無くなりました。

また農民から刀などの武器を取り上げ、農民と武士をはっきりと分けた、とされています。実際には刀狩りはかなりセレモニー的な要素が強く、刀も鉄砲も自衛に必要な範囲で所持は認められ、あくまでも武器の所持を管理することに重点が置かれていた、と考えられています。刀を普段から身に着ける権利(帯刀権)を奪い、武士と農民の身分差をしっかりつけることに目的があった、ということです。

この刀狩りについては兵農分離の側面と、もう一つは中世の自分の身は自分で守る、という自力救済の考え方を否定した「平和令」の側面があるという考えもあります。

 

4 朝鮮出兵

秀吉は明を征服しようとして通り道の朝鮮に協力を命じますが、断られ、朝鮮へ出兵します。一回目の出兵を文禄の役、二回目を慶長の役と言います。朝鮮では壬申倭乱、丁酉倭乱といいます。

文禄の役では鉄砲の威力や戦国時代を勝ち抜いた日本側の強さによってかなり攻め込みますが、明からの援軍もあって戦況は難しくなり、結局和睦します。

明と日本の間で交渉が持たれますが、日本側の要求の大半が通らなかったことで秀吉は再度の出兵を決意します。秀吉の通らなかった主な要求は明への朝貢や朝鮮に秀吉の拠点を残すことでした。ここで「?」となるかもしれません。秀吉が明に貢物を贈る?秀吉の要求は逆ではないか?などです。これは話が単純で、秀吉は明から「日本国王」に任ぜられています。これも秀吉の要求です。これは通りました。しかし明は日本国王の貢物を断ったのです。

なぜ秀吉は明に貢物を贈りたかったのでしょうか。実は秀吉は明征服計画の中で明を征服した時には後陽成天皇を明の皇帝にする予定があったのです。秀吉はあくまでも日本国皇帝の後陽成天皇の家来であって、明皇帝よりも格下、という意識があったからです。秀吉にとっては明皇帝の地位は天皇と取り替えができるものであって、彼の中では全く不思議ではなかったのです。ある意味秀吉は非常にスケールの大きいことを考えていたことを示すエピソードです。

結局二度目の出兵は朝鮮側の戦いぶりもあって不利な状態の中で、秀吉が病死し、それをきっかけにして撤兵します。

 

秀吉の朝鮮出兵は多くの傷跡をアジアに残すことになりました。朝鮮は国土を破壊し尽くされ、多くの人民を日本に連れ去られてしまいました。朝鮮の再建にはその後長い時間と費用がかかります。日本に連れ去られた朝鮮人の中で有名なのは有田焼を始めた李三平、薩摩焼を始めた沈当吉、日本に本格的な朱子学を伝えた姜沆(きょうこう)です。一方で唐辛子や鉄砲がもたらされました、鉄砲を朝鮮にもたらしたのは秀吉軍から投降してきた日本兵で「沙也加(さやか)」と呼ばれる人々です。「雑賀衆(さいかしゅう)」ではないか、と見られています。

 

明では「万暦の倭乱」と呼ばれ、万暦帝の悪政と相まって明の国力は大いに傾き、中国東北部の異民族である女真族のアイシンギョロ・ヌルハチによって滅ぼされる原因ともなりました、ヌルハチの立てた王朝を清といいます。

 

日本では豊臣政権の弱体化が進み、朝鮮出兵に参加しなかった徳川家康の力が伸びて豊臣氏滅亡の原因ともなりました。

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