織田信長の統一事業

織田信長です。

戦国武将人気ナンバーワンです。

 

織田信長の人気はやはり「革命児」であるところで、信長が実は常識人で保守的な政治家であった、というとブーイングが飛んできます。

 

しかし近年の研究動向では織田信長の革命性よりは信長の保守性に力点を置くことが多いです。


虚像の織田信長 覆された九つの定説

ただ入試ではまだまだ革命者としての信長、という見方が主流なので、とりあえずその方向で基礎を固めてください。

 

1 合戦

個人的には信長の合戦をその場所までしっかりと覚えることに何の意味があるのか、わかりません。出題者が戦国オタクであることだけはわかります。流石に最近そういう馬鹿げた問題はあまり見かけませんが、合戦の名前を覚えておくに越したことはないでしょう。

 

そこで織田信長の合戦のなかで重要なものを二つあげておきます。これくらいは覚えても損はありません。

 

まずは桶狭間の戦いです。今川義元を撃破し、信長の名前が一気に有名になった戦いでもあります。奇襲戦法で義元を破った、として受験指導でも熱の入りやすいところですが、まあほどほどにしましょう。

 

そして長篠の戦いです。近年では三段撃ちだとか武田の騎馬隊だとか、画期的な新戦法だとか、そういう受験で出てきそうなネタはほぼ否定されています。しかし一応中学受験では鉄砲隊とか、騎馬隊だとか、使い古されたネタは有効です。というか、有効なのはおかしいと思いますが。

 

2 経済政策

何と言っても楽市楽座を覚えておきましょう。

 

市場で商売をするには既得権を持つ上級者に年貢を納めなければなりませんでした。例えば京都市内で鮭や昆布を得るには伏見宮家という皇族に上納金を納めます。伏見宮家に上納金を納めた者だけが京都市中で鮭と昆布を商うことができたのです。実は荘園と同じシステムです。そして市場で独占的に商いができる集団を座と呼びます。信長はそれらを自由化し、商業を発展させようと考えました。それを楽市楽座と呼びます。それによって市から利益を得ていた座は解体され、上納金によって生きていた古い権力は解体され、中世的なシステムは崩れて近世社会に進んでいくのです。

 

と大体これだけ押さえておけば受験の基本はクリアできると思います。ただ近年の研究の動向は、信長の「楽市楽座」令と、それ以前の市場に布告されていた市場法にそれほどの差異がないことが指摘されています。信長が市場の秩序を守る楽市楽座令を出さなければならなかったのは、当時における貨幣経済の動揺がある、と考えられています。事実鎌倉時代・室町時代を通じて発展してきた貨幣経済が行き詰まりを見せていきます。それは銅銭の不足によって引き起こされ、結果的に貨幣経済に基づく貫高制から、米の取れ高に注目する石高制に変わっていくことになります。

 

3 室町幕府と信長

信長と室町幕府といえば、足利義昭を擁立したものの対立し、義昭を追放、というところを押さえておけばいいのですが、もう少し詳しく押さえるならば、足利義輝が三好三人衆に殺される→三好三人衆が足利義栄を擁立→織田信長を頼った足利義昭が信長とともに京都に入京し、十五代将軍となったが対立して追放、まで押さえておけば、ほぼ困らないのではないか、と思います。

 

信長が早くから義昭を操り人形のように扱い、それに義昭が不満をつのらせる、という図式がよく描かれますが、あながちそのような単純なものでもないようです。少なくとも信長はかなり義昭をしっかり立てているし、義昭も信長に対しては信頼していた、という方が実態には即しています。ただ義昭の足元では信長派と反信長派の対立があり、さらに義昭の朝廷への不誠実な態度に信長がいらだっているのは事実です。それが一気に破綻するのが、信長が武田信玄に手痛い敗北を喫した三方ヶ原の戦い以降です。義昭としては信長一辺倒ではまずい、くらいの意味だったかもしれませんが、本願寺顕如と信長の和睦に信玄を頼ったのは、信長との関係を悪化させた、という面はあります。

 

室町幕府はその最後まで信長にかなり気を使わせています。なんせ信長は降伏する形での義昭との講和を望んでいたからです。ただ義昭はそれを蹴りました。最近義昭の能力については見直されてきていますが、個人的な意見を言えば、この信長との和睦交渉を見る限り、結構無能です。信長が最大限譲歩しているのがわからなかったように見えます。信長が許しを請う形での和睦を蹴った義昭ですが、信長の回答は義昭の膝元の上京の焼き討ちでした。信長はあくまでも義昭の顔を立ててやっているだけで、情勢は義昭の方が降伏すべき状態でした。

 

結局義昭は命は助けられますが、畿内をうろうろし、その間に信長との和平交渉も行われますが、義昭のあまりの高姿勢に使者の羽柴秀吉も呆れて交渉を打ち切っています。義昭はのちに秀吉の顧問となります。

 

4 信長の宗教政策

信長は基本的に無宗教であった、と思われがちです。

受験では比叡山の焼き討ちと伊勢長島一向一揆の皆殺し、そして一向宗の総本山石山本願寺との激烈な戦いを押さえて、昔からの仏教勢力を否定する信長、というイメージを出すとともに、信長がキリスト教を支援したことをとらえて、信長の革新性と結びつけることが多く行われています。

 

まあ間違いではないのですが、信長は意外なことに日蓮宗の信者です。本能寺も妙覚寺も日蓮宗の寺院です。

 

信長は比叡山を焼き討ちしたことで知られていますが、最近では「焼いていない」という見方もなされています。ただ信長が延暦寺を攻撃したことは光秀の書状や当時の公家の日記に書かれているので、炎上していることは間違いありません。ただ当時の延暦寺はすでに荒廃していて、信長が焼いたとしてもそれほど大規模なものではなかっただろう、と考えられていること、延暦寺の荒廃の大きな原因は細川政元が信長よりも先に焼き払っていること、などから考えて信長の比叡山焼き討ちというものに大きな幻想を持つのもどうか、と思います。

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