歴史の大きな流れを押さえようー平安時代

平安時代は794年の平安京遷都から鎌倉幕府の成立の1192年までをいいます。この辺は結構ざっくりしています。細かく言いますと1192年鎌倉幕府という見解はほぼ絶滅危惧種です、

 

大きく分けますと、律令をなんとか守ろうとしていた時代、律令が崩壊したので新しい体制を模索した時代、新しい体制の王朝国家ができた時代に分かれます。さらに王朝国家は摂関政治という天皇の母方の身内によって政治が動いた時代と、院政という天皇の父方の尊属(父とか祖父とか曾祖父とか)によって政治が動いた時代に分けられます。

 

1 桓武天皇とその皇子たち

天皇の名前で言えば桓武・平城・嵯峨が該当します。この中で覚えなければならない人名は桓武天皇一人です。あとは忘れて大丈夫です。

 

奈良時代末期、天武天皇の子孫は多くの争いに巻き込まれ、次々と殺害されていなくなりました。最後に残ったのが称徳天皇とその妹の井上(いのえ)内親王だけです。このうち称徳天皇は独身で皇子はいません。井上内親王は天智天皇の孫の白壁王という人と結婚して他戸(おさべ)親王という皇子を産んでいました。ちなみに誰も覚えなくていいです。

 

結局選ばれたのは白壁王でした。他戸親王を次の天皇にすれば天武天皇の血統は続く、という考えからです。しかしここで異変が起こります。井上内親王と他戸親王は冤罪によって処刑されます。結果、天武天皇の血を引かない山部親王が天皇に決まります。これが桓武天皇です。この人だけ覚えてください。

 

つまり天皇家が天武天皇の子孫から天智天皇の子孫に変わったわけです。そこで新たな都が必要になりました。桓武天皇の母親は朝鮮半島から渡来してきた渡来人の子孫です。渡来人のコロニーである山背国(山城国)に遷都することになりました。784年、山背国は山城国と改称され、乙訓郡に長岡京がおかれましたが、いろいろややこしいことがありすぎて10年でほったらかしにされ、794年、平安京に遷都されました。

ここまで長々と述べてきましたが、要するに桓武天皇によって794年に平安京に遷都された、ということが言いたかっただけです。

794年平安京遷都(なくよウグイス平安京)

個人的な感想ですが、なぜ「ウグイス」が平安京なのか分かりません。ウグイスは別にどこでも鳴いていると思います。

もう一つ、余裕があれば、ですが、都の動きをまとめておいてもいいかも、です。

飛鳥をウロウロ→孫の文武天皇のために根性入れた持統天皇によって藤原京→孫の聖武天皇のために根性入れた元明天皇によって平城京→聖武天皇パニクって紫香楽宮・恭仁京とウロウロ→「何してけつかるねん(何をしていらっしゃるのでしょうか)、大仏できとるがな(大仏も完成してございます)」という批判を受けて平城京に戻る→桓武「俺様の都を作るんだ」と長岡京へ→長岡京でひどい目にあったので平安京に(←今ココ)

 

平安京遷都事業と並ぶ桓武の大きな柱が蝦夷(エミシ)征討です。征夷大将軍となった坂上田村麻呂はアテルイと戦い、東北支配を岩手県と秋田県まで広げていきました。

 

この時代は律令をなんとか手直ししようともがく時代です。しかし国家が全てを支配する古代中華帝国のまね事が上手く回るはずはありません。そもそも中国でもうまく回らず、唐や新羅は急速に衰えていきます。

 

一応この時代の仏教の偉人二人と宗派と寺を押さえるべきです。最澄空海の二人によって持ち帰られた仏教の教えは密教と呼ばれ、お祈りによって病気を治したり、国の乱れを治したりできる、というものでした。本来の密教は真言宗でしたが、天台宗ものちに密教化し、延暦寺はそれまでの顕教と新たな密教を学ぶ場所となりました。

最澄(伝教大師)→天台宗を伝え、比叡山に延暦寺(滋賀県)を建立します。

空海(弘法大師)→真言宗を伝え、高野山に金剛峯寺(和歌山県)を建立し、また京都の東寺をもらいます。

 

2 桓武天皇の孫やひ孫の時代

この時代は律令政治がもはや維持できずに王朝国家という新しい体制に向かう時代です。清和天皇・宇多天皇・醍醐天皇・村上天皇などが該当しますが、むしろ藤原良房・藤原基経・菅原道真を覚えておくといいでしょう。

 

いろいろあって清和天皇という8歳の天皇が誕生しました。8歳ですので実際の政治はできません。そこで清和天皇の母方の祖父で太政大臣であった藤原良房が摂政になります。摂政の始まりです。甥の基経は陽成天皇と折り合いが悪く光孝天皇を即位させ、その息子の宇多天皇の時に関白となります。

摂政のはじまり→藤原良房

関白のはじまり→藤原基経

 

ちなみに天皇が幼少の時に天皇の代理となるのが摂政で、天皇が成人後に天皇の側について天皇を補佐するのが関白です。

 

藤原氏は他の有力氏族を排斥します。特に有名なのは菅原道真です。現在学問の神様として知られています。

道真は遣唐使の廃止を提案したり、関白の職務内容を決定したりした有能な政治家です。宇多天皇によって右大臣にまで引き上げられ、事実上の関白を左大臣藤原時平とともに努めますが道真を排斥したのちに若死にします。

道真の遣唐使廃止の提案が894年です。この年代も覚えておいて損はありません。

→894年:遣唐使廃止(はくしに戻す遣唐使)

 

時平の弟で道真の弟子であった藤原忠平は朱雀天皇が幼少の時には摂政、成人後は関白となり、この形が以後も引き継がれます。

 

3 摂関政治

村上天皇の時代を最後に摂政・関白が常置されるようになり、天皇の外戚(母方の親戚)として朝廷をリードする摂関政治が本格化します。

特に有名なのが藤原道長と藤原頼通の二人です。道長は一条天皇の時に左大臣となり、三条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇の外戚をして辣腕をふるいます。

1016年、道長は摂政になります。これは後一条天皇が幼少であったため、道長は止むを得ずなったものであって、彼は左大臣でありながら関白の職務だけを行なっていました。意外なことに道長は関白になったことはありません。摂政も2年で辞任してしまいます。摂政・関白になると太政官から外れなければならなかったので、太政官に居続けたい道長にとって摂政・関白になることは無意味どころかマイナスでしかなかったのです。

→1016年:藤原道長、摂政就任(道長はとおいむかしのワンマン摂政)101=とおい、6=む

 

道長が一条天皇の后の彰子、三条天皇の后の姸子、後一条天皇の后の威子の「一家三后」を成し遂げた時の和歌の「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」という歌は道長の権勢を示す歌として有名です。

 

道長の時代には天皇が後円融系統と冷泉系統に分裂し、天皇が短期間で交代したため、多くの后が出現し、またそれに使える女官を増えて女流文学が発達しました。代表的な人物として『源氏物語』を表した紫式部がいます。彼女は一条天皇の中宮の彰子に仕えていました。あとは『枕草子』を表した清少納言がいます。彼女は同じく一条天皇の中宮定子に仕えていました。

 

紫式部『源氏物語』藤原道長の娘の彰子に仕える

清少納言:『枕草子』定子に仕える

 

道長との関係で出てきた紫式部以外の国風文化については各自まとめておいてください。

 

4 院政

王朝国家と呼ばれるシステムの一番のポイントは、人への課税から土地への課税でした。一人一人の人民を押さえることをやめたのです。律令制はここに終了しました。だいたい宇多天皇・醍醐天皇あたりまでは無駄な抵抗をしていたのですが、朱雀天皇と藤原忠平の頃には完全に律令体制を維持することはなくなりました。

 

国司の無茶振りの例として有名なのは藤原元命です。尾張国でのブラックぶりで国司をクビになりました。

 

各地の有力な農民や郡司といった有力者が武装した集団を作り、そこに京都から降ってきた下級貴族が結びついて武士団と呼ばれる軍事貴族が出現しました。

 

関東に勢力を広げた桓武天皇の子孫の桓武平氏の内輪もめは10世紀には平将門の乱に発展します。また瀬戸内では藤原純友の乱が起こります。平将門は同じ軍事貴族の藤原秀郷や、将門のいとこの平貞盛によって討伐され、藤原純友は源経基らによって制圧されます。こうして武士の反乱には武士が使われるようになりました。実際にはこの戦いで功績のあった桓武平氏、清和源氏などが武士団として展開していくことになります。

 

一方、関西に力を広げ、京都中央の軍事貴族として成長した清和源氏はやがて反乱の起こる地方に国司として派遣され、東国まで勢力を広げていきました。特に11世紀の前九年の役を鎮圧した源頼義後三年の役を鎮圧した源義家は有名です。

 

10世紀の武士の活躍

平将門の乱東国で反乱

藤原純友の乱瀬戸内海で反乱

 

11世紀の武士の反乱

前九年の役→源頼義、蝦夷の安倍氏討伐→源氏の東国への進出

後三年の役→源義家、清原氏の内紛→奥州藤原氏の出現

 

この時代の土地制度を荘園制といいます。荘園制をものすごくわかりやすく言うと名義貸しです。当時の土地争いは力の強いものが勝ち、という単純なものです。であればより力の強い人物の名義を借りれば争いには無双状態です。どこが一番強いでしょうか?

(藤原道長)「ぼく?オレ?それとも私?」(誉れのポーズ)

名義を摂関家にすれば一番強いわけです。国の租税のかからない不輸の権、国司の使者の立ち入りを拒否する不入の権などが獲得できます。

 

後三条天皇は藤原氏との血縁関係は薄く、本人も藤原氏からの自立を目指していた、と言われます。彼は頼通の荘園を制限する荘園整理令を出します。荘園を一方的に取り上げたようなイメージですが、実際には記録のある荘園は認めたので、荘園を認めた、という側面もあります。後三条天皇によってむしろ荘園制が完成した、とも言えます。

 

後三条天皇のあとを継いだのは摂関家との外戚関係のある白河天皇でした。後三条天皇は白河天皇の子孫ではなく、弟を白河天皇の皇太弟としていたので、退位を強行して自分の皇子を天皇にしてしまいます。やがて関白と天皇が相次いで亡くなった時に自分の孫を天皇につけますが、摂政候補が17歳であったために自らが新たに天皇になった鳥羽天皇を後見します。このように退位した元天皇である上皇(出家して法皇)が政治をリードする形を院政と呼びます。

 

1086年白河天皇、堀河天皇に天皇の位を譲り、院政を始める

 

白河法皇はひ孫の崇徳天皇までは元気でした。しかし崇徳天皇の在位中に白河法皇がなくなったため、あとを継いだ鳥羽上皇は崇徳天皇を引き摺り下ろして近衛天皇を天皇にします。しかし近衛天皇が若くして亡くなり、続いて鳥羽法皇もなくなった時に争いが起こりました。新たに天皇になった後白河天皇に兄の崇徳上皇が不満を持ち、後白河の退位を画策します。摂関家内部でも争いが起こり、藤原忠通と藤原頼長が争い、忠通は後白河と、頼長は崇徳と組んで1156年、保元の乱が起こります。この戦いは源義朝だけでなく平清盛をも味方につけた後白河天皇の勝利に終わりました。

武士が中央政治に影響力を持つようになった、という点で非常に大きな事件でした。「この時より武者の世になった」と当時の人は記しています。

 

三年後、後白河天皇は息子の二条天皇に天皇を譲り、院政を敷いていました。後白河院政に不満を持つ二条天皇側近と、後白河上皇の周辺で力を持っていた信西に対し、新たに後白河の側近となった藤原信頼が反発したことから平治の乱が起こります。平清盛をうまく仲間に引き入れた二条天皇が勝利し、二条天皇死後は清盛と結びついた後白河院政が行われて、平清盛の勢力が強くなります。これを1159年に起きたこの事件を平治の乱といいます。この結果清和源氏は壊滅的なダメージを受けます。

 

1156年保元の乱→武士の力が使われ、武士が勢力を伸ばす(時はいいごろ保元の乱)

 

清盛は日宋貿易を始め、また反清盛派を押さえ、自分の娘を高倉天皇に嫁がせ、生まれた皇子を安徳天皇として、外戚政治を行いました。しかし清盛に不満を持つ人々は次々に立ち上がり、清盛の病死後は平氏は急速に衰え、木曾義仲に都を落とされ、源頼朝によって壇ノ浦で滅ぼされました。1185年のことです。

 

1185年平氏滅亡壇ノ浦(山口県下関市)

 

保元の乱から壇ノ浦に至る平氏の動きを押さえた上で初めて頼朝の動きを中心に義仲の動きを加えて覚えることができます。

頼朝:挙兵→石橋山の戦いで敗北→勢力を盛り返し、富士川の合戦で勝利、木曾義仲を滅ぼしてから一ノ谷(兵庫県)、屋島(香川県)、壇ノ浦(山口県)と平氏を追い詰めて滅ぼす

 

義仲:挙兵→倶利伽羅峠の戦い(富山県・石川県)で平氏を破り、京都を落とす→頼朝に滅ぼされる

 

もう一度覚えておくべき重要な年号をあげておきます。

794年:平安京遷都

894年:遣唐使廃止

1016年:藤原道長摂政就任

1086年:院政の始まり

1156年:保元の乱

1185年:平氏滅亡

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