『虚像の織田信長』解説第二章

前回の続きです。

『虚像の織田信長』解説第一章分

 

塾の教え子で買ってくださった方もいらしゃってありがたいことですが、「コアな歴史ファン向け」ということもあってちょっとむずかしいので、こちらで少しでも分かりやすく説明しようと思っています。


虚像の織田信長 覆された九つの定説

 

渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房、二〇二〇年)の第二章「実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇」です。

 

歴史をかじった小学校五年生でもわかる内容を目指しています。

 

こっちはかなりマニアックな話になってしまいます。そもそも信長の時の天皇って知っている人、どれくらいいらっしゃいますかね。かなり詳しい戦国時代の朝廷マニアでもなければあまり知られていないでしょう。

 

答えは正親町天皇です。

 

とりあえず中学入試には出てきませんね。大学入試に出てきて「難問」とディスられるのが関の山です。

 

正親町天皇を有名にしたのは今谷明氏の次の書物です。


信長と天皇―中世的権威に挑む覇王 (講談社現代新書)

 


信長と天皇 中世的権威に挑む覇王 (講談社学術文庫)

上がもともとの本で、下が再刊されたものです。それだけ研究に大きな影響を与えた書物ということになります。

この書で今谷氏は正親町天皇を信長に抵抗して天皇の地位を守り切った巨大な存在としています。そして研究は今谷説の見直しという形で進み、現在ではかなり違う見方が提示されています。

 

とりあえず言いたいことは次の6点です。

1 蘭奢待切り取りでブチ切れたのは正親町天皇ではありません。逆にブチ切れられています。

2 朝廷の伝統と権威を軽んじたのは信長ではありません。正親町天皇です。

3 信長が正親町天皇を退位させようとしたのは、早く譲位したい正親町天皇への援助です。

4 天皇の命令で講和しようとしたことに関してはいろいろな説がありますが、とりあえず信長が主導権を持っていたようです。

5 信長の軍事パレードは天皇に対するおどしではなく、妻に死なれた正親町天皇を元気付けるためです。

6 信長は官位にはこだわりがありません。

 

1 蘭奢待切り取りでブチ切れたのは正親町天皇ではありません。逆にブチ切れられています

「蘭奢待」

これを何と読むか知らない生徒はとりあえず学校で織田信長の伝記を借りて読んできましょう。買えばよりいいです。

 

「らんじゃたい」と読みます。香木の一種です。聖武天皇の宝物で東大寺正倉院に入っています。校倉造で有名です。この辺は入試では大事なポイントです。知らない受験生は早急に復習して定着させてください。

東大寺正倉院→聖武天皇の宝物を収める。校倉造。

 

ちなみに「蘭奢待」という字をよく見ると「東大寺」という字が入っています。「蘭奢待」というのは言葉遊びです。

 

信長は大和国を押さえると蘭奢待を切り取りたい、と朝廷に願い出ます。朝廷ではびっくりしたものの許可を出します。信長は東大寺の手によって運び出された蘭奢待を少し切り取ってもらい受け、それを天皇にも献上しています。

 

ところが正親町天皇が「聖武天皇の怒りがこわい」と書いた手紙がありまして、それを根拠に正親町天皇は信長に対し怒っている、と考えられてきたわけです。

 

ところが近年金子拓氏がその手紙を詳細に検討したところ、どうやら手紙の主は三条西実枝(さんじょうにし さねき)という公家で、内容は「天皇は責任逃れで関白二条晴良(にじょう はるよし、または、はれよし)にやらせようとしている。聖武天皇もお怒りだろう」という内容ではないか、ということを主張しています。


織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)

 

どうも正親町天皇は伝統とか権威を大切にしない人物であったようで、三条西実枝も織田信長も呆れることが多かったようです。

 

2 朝廷の伝統と権威を軽んじたのは信長ではありません。正親町天皇です。

信長は天皇の周りに「奉行衆」という組織を設置し、天皇を補佐させました。どちらかといえば天皇を監視する、と言った方が正確です。

 

メンバーは三条西実枝・中山孝親(なかやま たかちか)・勧修寺晴右(かんじゅじ はるすけ、または、はれすけ)・庭田重保(にわた しげやす)・甘露寺経元(かんろじ つねもと)の5名です。

 

この奉行衆が設置されたきっかけが「肩衣相論」という事件です。「肩衣」とは僧侶の着る衣の一種で、もともと天台宗の僧侶が着るものでしたが、江戸忠通という常陸国の武将が真言宗にも着る許可を出しました。それに対し後奈良天皇(正親町天皇の父)が真言宗への肩衣着用を禁止しました。

 

ところが正親町天皇は突然ちゃぶ台返しを行い、真言宗に認めます。しかしそれもつかの間、天皇の義兄弟の僧侶が文句をつけた結果、またもやひっくり返った末にその天皇の命令を出した公家が処罰される、というドタバタが展開されました。

 

何のことだかわからないと思いますが、信長も同じことを思ったようで「天皇周辺のなさりようはわけがわからん」と信長が文句をつけたために奉行衆が設置された、と史料には書いてあります。結局全ての天皇の命令を無効としてしまいました。

 

興福寺のトップの人事でも正親町天皇は迷走します。興福寺の決定に不満を持った候補者が天皇に泣きついて天皇の命令をもらいました。それを聞いた信長は「今までのしきたりどおりに興福寺の言う通りにしましょうよ」と意見を出して安土に帰ります。しかし天皇は信長や興福寺の意向を無視して自分のお友達を強引にねじ込みます。

 

さすがに信長もちょっとキレて「天皇がそんなことをすれば天皇が恥をかきます。それは私にとっても恥となります」と丹羽長秀と滝川一益を通じてクレームを入れました。

 

正親町天皇には、都合が悪くなると

 

(∩゚д゚)アーアーきこえなーい

 

とやる癖があったようで、代わりに天皇の皇子で皇太子の誠仁親王(さねひとしんのう)が信長に「天皇も後悔していらっしゃいます」という手紙を出しています。

 

この二つの事件を見る限り、伝統や権威を逸脱しているのは天皇の方であって、信長はそれを何とか正しい道に戻そうと介入している、という図式になります。

 

3 信長が正親町天皇を退位させようとしたのは、早く譲位したい正親町天皇への援助です。

信長は二度にわたって正親町天皇に誠仁親王へ天皇を譲ることを要請しています。

これについては、正親町天皇は最後まで譲ることがなく、信長の圧力をはね返したかのように読めます。

しかしこれは「天皇は位を譲らない」というのがどの程度そのころには常識となっていたか、という問題があります。実はそのころの天皇は位を譲るものでした。ところが正親町天皇のひいおじいさんの後土御門天皇は応仁の乱の時の天皇ですが、その後朝廷が金がなくなってしまうので位を譲ることができなくなってしまったのです。それどころか葬式の費用にも事欠くありさまでした。

 

信長は位を譲る時にかかる費用を負担することを申し出ています。

 

ただタイミングがうまくいかなかった。最初に言い出した時は、年末で、信長は年末年始を京都では一回も過ごしていません。信長はどうも京都があまり好きではなかったようで、来てはすぐに帰っていくという感じだったようです。だから譲位は延期になり、その後はしばらく信長包囲網との戦いに忙殺されてうやむやになったようです。


宿所の変遷からみる 信長と京都

 

武田勝頼を滅ぼした信長は天皇からの左大臣の打診に天皇の譲位を持ち出します。しかしこの年は縁起が悪い、ということで延期になり、その直後に信長は本能寺の変で倒れてしまいました。

 

こうしてノロノロしているうちに誠仁親王は急死し、結局豊臣秀吉の援助で孫の後陽成天皇への譲位が成功します。

 

正親町天皇は当時すでに60を超えた高齢で、病気がちだったこともあり、意外と譲位は切実だったようです。

 

4 天皇の命令で講和しようとしたことに関してはいろいろな説がありますが、とりあえず信長が主導権を持っていたようです。

これについては信長が天皇の権威にすがる、という今谷氏の研究があり、それを踏まえて近年では逆に信長が天皇を利用しているという見方が強くなっています。今谷説では信長と正親町天皇は対立する関係として描かれていましたが、近年ではむしろ信長と正親町天皇の協調を見る方が有力です。

 

5 信長の軍事パレードは天皇に対するおどしではなく、妻に死なれた正親町天皇を元気付けるためです。

信長は京都で一回「馬揃(うまぞろえ)」という軍事パレードを行なっています。軍事パレードとは言っても、精一杯着飾った武将たちが馬に乗って走り回る、というものであって、軍事というよりはお祭りです。

 

これについては今谷氏によって譲位しない正親町天皇へのおどしである、という見方が提示されました。それに対し近年の研究では、この馬揃が天皇側からの要請で行われたことから、天皇に対するおどし、というものではないことが明らかになってきました。

 

この直前に正親町天皇と誠仁親王は大切な家族を喪っています。その沈んだムードを吹き飛ばすために、何をしようか、と考えている時に、信長が安土で派手なお祭りをやっていることが耳に入り、それを京都でもやってほしい、と朝廷から要請したようです。

 

ちなみにこの馬揃の責任者は、当時「近畿管領」とも呼ばれ、近江国坂本城(滋賀県大津市)と丹波国亀山城(京都府亀岡市)を押さえる明智光秀でした。

 

6 信長は官位にはこだわりがありません。

「三職推任(さんしきすいにん)」という話があります。武田氏を滅ぼした信長に対してその功績を称えるために信長に征夷大将軍か太政大臣か関白か、どれでも好きなものに朝廷が推すというものです。これについては朝廷が言い出しっぺか、信長が無理矢理に言わせたものか、という議論があります。

 

これ、結論から言えば「分かりません」が正しいのですが、それでは商売にならないので、限界まで一生懸命考えるわけです。歴史学は暗記ではなく、こういう考えるものであることをご理解いただければ幸いです。

 

現在のところ、征夷大将軍ではないか、という見解が有力です。そして信長が言い出したのではなく、朝廷が言い出した、もしくは信長の京都代官であった村井貞勝がアドバイスした、という見方が有力です。

 

あまりにも自明のことと思っていましたので、この本では書きませんでしたが、征夷大将軍は源氏に限る、というのは都市伝説です。はっきり言えばデタラメです。結構信じている人が多いのでお気をつけください。藤原頼経・藤原頼嗣・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王が激おこぷんぷん丸です(いずれも鎌倉幕府の征夷大将軍)。

 

ただ信長があまり官位に興味がなかったらしいこと、朝廷は信長に高位高官に上って欲しかったらしいことなどを考えると、朝廷が征夷大将軍にならせようとし、信長がその答えを出す前に本能寺の変になってしまった、というのが正解ではないかな、と私は考えています。

 

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