織田信長は濃い味が好みだったか
織田信長について、次のようなエピソードが語られます。
信長は田舎風の濃い味が好みで、京風の薄い味を出されてキレた。
まことしやかに語られるネタですが、本当でしょうか。
結論から言いますと、私は嘘だと考えています。
このネタ元は『常山紀談』という、江戸時代中期に書かれた書物です。こういうのを歴史学では「二次史料」と言います。つまり後世に書かれた史料です。これだけをもって史実と考えると非常に問題があります。ちなみに同時代に書かれた史料を「一次史料」と言います。この一次史料は、これはこれで完全に信を置けるものではありません。同時代ではわからないこともあります。またかなり筆者の主観も入ります。この辺を考えるのが歴史学という学問です。
話を戻しますと、信長が田舎者で、京風の味がわからない、ということを揶揄した話であると思いますが、二つの点で問題があります。
まず一つ目ですが、信長が京都を嫌っていたらしいのは事実ですが、彼は同時に京都の教養などにも通じた文化人であることを忘れてはいけません。この辺はもうすぐ発売の『虚像の織田信長』(柏書房)をお読みください。
もう一つは、当時の京料理は他所と比べて薄味だったのか、という疑問があります。
京料理が薄味、というのは、出汁を効かせているからできることであり、単に薄いのであれば、それは単に薄い味です。そして出汁というものが出てくるのは江戸時代に入ってかなり経ってからです。昆布だしは北海道で大量に採集する体制ができあがり、それを関西に運ぶルートが完成しないとできません。
織田信長の時代、京都が尾張と比べて薄味であったとは思えません。現代の我々からしたら考えられないくらいどちらも薄味だったでしょう。調味料が非常に限られているうえに出汁も存在しませんから。
さらに「京都(関西)は薄味」というのは私は疑問に思っています。薄口醤油を使えば色は薄くなりますが、塩分は強くなります。出汁の味を引き立てるために他の味が主張しないようにしているのです。私が宿直のバイトに入った時、料理を担当してくれた先輩の宿直員が「君、出身どこ?」と聞いてきたので、「京都です」と言ったら、「じゃあ薄味だね」と言って、本当に味の薄いのを出してきたのには閉口しました。人によっては本当に出汁をとる、という発想がないんですね。
「信長って濃い味が好きだったらしいね」という言葉は、少し眉に唾をつけて聞いておくのがいいでしょう。