織田信長と天皇の関係はどうだったの?
大河ドラマ『麒麟がくる』、織田信長と正親町天皇の関係が悪化し、間に立つ明智光秀の心労が増している、という話のようです。
実際信長と正親町天皇の関係はどうだったのでしょうか。
従来、信長は自分の意のままにならない正親町天皇を退位させ、自分に都合の良い誠仁親王(さねひとしんのう)を天皇につけようとしてきた、とされてきました。大河ドラマもその方向で描かれている、と言っていいでしょう。
しかし現在の学界の多数説はその見方を否定しています。
詳しくは渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房)に収録された「実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇」をご覧いただければ嬉しいのですが、ここでそのアウトラインを書いておきます。
一言で結論から言いますと、信長は正親町天皇に対しては「しょうがねえ奴だなぁ」と思っていたのではないか、と考えています。実際正親町天皇の迷走ぶりはひどく、有能な誠仁親王に譲位してほしいという気持ちは多くの人々に共有されていたのではないか、と思います。ただ譲位については正親町天皇も望んでいたことである、という点が大きなポイントです。
実は天皇であること、というのはかなりの足かせです。不自由です。外出もままならず、儀式にしばられて自由はほぼありません。治療も「玉体を損なう」ということで許可されません。天皇でいていいことなど一つもありません。
だから前近代の天皇は譲位するのです。天皇の地位にしがみつくのは、自分にとって都合のいい後継者を指名したい時です。要するに自分の息子が天皇になれる状況になればあっさり譲位するものです。
ところが戦国時代に入りますと、譲位したくてもできない、という状況が続きます。
後花園天皇が後土御門天皇に譲位したのを最後に応仁の乱が勃発し、後土御門天皇の時には朝廷は極端な財政不足に陥ります。後土御門天皇は譲位したいと願い、五回も譲位を表明しますが結局できませんでした。
譲位すると上皇と天皇は同居できないルールがあるので新たに仙洞御所を作らなければなりません。本来ならば後花園上皇の仙洞御所があったのですが、火事で焼け落ちています。室町幕府はそれを再建するのを嫌がったのです。理由は幕府にも金がないからです。即位式にも金がかかります。
後土御門天皇は譲位の願いを叶えるどころか、大喪の礼すら一ヶ月半も遅れてしまいます。
事情は後柏原天皇・後奈良天皇も変わりありません。後柏原天皇は践祚(せんそ、皇位を継承すること)後に即位(皇位を継承したことを内外に広く知らせること)するまでに金がなく、23年間かかりました。普通は践祚後は半年ほどで即位します。後奈良天皇は10年かかりましたが、これは大内義隆が金を出してくれたからです。正親町天皇は毛利元就の献金で2年後に即位できました。
ただこれは天皇の「崩御」(死去)を受けての「諒闇践祚(りょうあんせんそ)」の場合です。前の天皇から位を譲られる「受禅践祚(じゅぜんせんそ)」の場合、仙洞御所の造営と即位式の費用というダブルパンチを食らうことになります。だから天皇の「崩御」まで先送りし続けたのです。そして「諒闇践祚」が続く状態はやはり当時の天皇からすれば異常事態であったわけです。
正親町天皇に対する信長の譲位の要請は、要するに「譲位するだけの費用は私が負担しますよ」ということに他なりません。実際当時の史料にも正親町天皇が信長の譲位の申し入れに非常に喜んでいる、と記されています。
結局正親町天皇の譲位ができなかったのは、タイミングが悪かった、としか言いようがありません。加えて信長のスケジュールは結構きつく、特に本願寺との戦いが厳しくなっている状態では信長は譲位に関わっている状況ではありませんでした。本願寺を屈服させ、毛利との戦いが終わった時こそ、譲位のベストタイミングだったでしょう。しかしその前に信長は本能寺で死んでしまいました。
信長の死後、織田家は混乱し、羽柴秀吉によってようやく譲位のタイミングが作られた時には不幸なことに誠仁親王は病死してしまっていました。正親町天皇は孫の後陽成天皇に譲位することになりました。