歴史の大きな流れを押さえようー昭和時代1

昭和時代についてはいろいろと難しい問題があるので公開するのも腰が引けますが、一応見ておきます。難関中学では特に問われることが多く、出来不出来の差も大きいと思われますので、それなりにしっかりと押さえておいてください。

ちなみに赤字は中学入試で必要とされる知識です。中学校の社会ではもう少し詳しく書く必要があるのでご注意ください。今抱えている中学入試が終われば少し改定し、中学校社会・高校入試に対応した赤字つけをしていきます。

なおここで記述している内容はあくまでも入試対応のためなので、その点ご理解をお願いします。

 

1 昭和初期の政党内閣時代(第一次若槻禮次郎・田中義一・浜口雄幸・第二次若槻禮次郎・犬養毅)

⑴ 第一次若槻禮次郎内閣

加藤高明内閣がいわゆる護憲三派と言われる政党を中心にして組織され、その結果普通選挙が実現したことは大正デモクラシーの成果の一つでした。

加藤高明総理は在職中に病に倒れ、死去します。内閣総理大臣臨時代理となったのは内務大臣の若槻禮次郎でした。そしてそのまま若槻禮次郎に組閣の大命(天皇の命令)が下ります。もっともこの段階では天皇の命令とは言い条、大正天皇はすでに重病で、皇太子の裕仁親王が摂政として天皇の代行をしていましたので、大命を下したのは摂政です。

若槻禮次郎

 

大正から昭和に時代が変わった時の内閣がこの第一次若槻禮次郎内閣です。若槻は憲政会を中心に組閣しています。

 

しかし若槻内閣に1927年昭和金融恐慌が襲いかかりました。大蔵大臣の失言から取り付け騒ぎが起こり、台湾銀行が休業に追い込まれ、金融恐慌を引き起こします。この中で若槻内閣は総辞職に追い込まれ、「憲政の常道」に従って立憲政友会の総裁であった田中義一(退役陸軍大将)に組閣の大命が下り、田中義一内閣が発足します。

 

⑵ 田中義一内閣

田中義一内閣高橋是清を大蔵大臣に任命し、モラトリアム(支払猶予令)を出して金融恐慌を収拾しました。

田中義一

田中内閣では外務大臣を田中自身が兼任し、それまでの外務大臣であった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の外交であった国際協調路線を修正し、日本の国益重視路線に切り替えます。大正時代の国際協調路線の外交を「幣原外交(しではらがいこう)」と呼びますが、昭和に入って幣原外交は終わり、基本的に日本の国益重視の外交になっていきます。具体的には中国大陸における日本の権益を拡大し、中国に対する強硬な姿勢を打ち出していきました。

田中内閣の時の1928年に普通選挙による衆議院選挙が行われ、無産政党(プロレタリアートの政党、例えば日本共産党や労働農民党など)の議員が多く当選し、田中内閣は無産政党の弾圧を行います。これを三・一五事件と呼びます。

 

田中義一内閣を終わらせたのは張作霖爆殺事件における田中総理の処理でした。張作霖は中国の軍閥と呼ばれる有力者の一人でしたが、中国北部に展開する関東軍は張作霖を爆殺した上で張作霖と対立する蒋介石率いる国民党の仕業に見せかけるために爆殺された、と考えられています。

田中総理は一旦は昭和天皇に対して事件の真相を明らかにすることを約束しながら、陸軍の抵抗に遭い、結局関東軍は無関係と昭和天皇に上奏しましたが「話が違う」と詰問され、さらに「田中総理のいうことはちっとも分からぬ。再び聞くことは自分はいやだ」と侍従長にもらしたため、責任を感じた田中総理は辞職しました。

 

⑶浜口雄幸内閣

政友会の次は「憲政の常道」に従って憲政会から浜口雄幸に組閣の大命が下されました。

浜口雄幸

しかし浜口内閣は大嵐に見舞われます。1929年世界大恐慌です。ニューヨークのウォール街における株価の大暴落に始まった世界中を巻き込む急激な景気の落ち込み(これを恐慌といいます)が、浜口内閣を直撃しました。浜口内閣は「金解禁」(金本位制の採用)を行なっており、世界の景気の動向に強く影響されることになってしまいました。

浜口内閣では外務大臣に幣原喜重郎を登用しており、幣原外交が復活していました。そのもとで1930年ロンドン海軍軍縮条約を結びましたが、海軍の反発を呼び、「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」(天皇の持つ軍隊を指揮する権限を犯すこと)と呼ばれる事態を引き起こしました。浜口首相は東京駅で狙撃され、臨時代理に幣原外務大臣が就きましたが、浜口総理の体調はもどらず、総辞職しました。

幣原喜重郎

 

⑷ 第二次若槻禮次郎内閣

「憲政の常道」では内閣が行き詰まって総辞職した場合には対立政党の党首に組閣の大命を、テロによる総辞職の場合には同じ政党の党首に組閣の大命を下すのが基本でした。その「憲政の常道」に従って憲政会→立憲民政党の若槻禮次郎に再度の大命降下となりました。

第二次若槻内閣の大きな出来事は1931年満州事変です。柳条湖事件を契機に関東軍が満州全土を支配し、清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を皇帝として満州国を建国します。この対応をめぐって若槻内閣では閣内で対立が起き、大日本帝国憲法では総理大臣に閣僚を辞めさせる権限がなかったために総辞職となりました。

 

⑸ 犬養毅内閣

 

憲政の常道に従って立憲政友会の総裁であった犬養毅に組閣の大命が下りました。犬養内閣にとっての最大の課題は世界大恐慌からの回復と満州事変への対応でした。

犬養毅

犬養内閣は満州国建国を承認せず、あくまでも中華民国との関係を保とうとしましたが、これが軍部の反発を招いて海軍の若手将校によって犬養総理が1932年5月15日に暗殺されます。この事件を五・一五事件と言います。

その後「憲政の常道」による政党内閣については陸軍の反発もあって見送られ、元老の西園寺公望と昭和天皇の意向は海軍の退役大将で穏健派の斎藤実に組閣の大命が下り、斎藤実は立憲政友会と立憲民政党、貴族院などからバランスよく閣僚を出したいわゆる「挙国一致内閣」を組閣し、ここに政党内閣は終わりました。

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