なぜ詰め込み教育はだめなのかー保護者の皆様へ

このエントリは受験生というよりは受験生の保護者の皆さま向けです。

 

詰め込み教育はダメなのか

現在「詰め込み教育はダメだ」という意見はあちらこちらで目にします。「詰め込みではなく、思考力を育てよう」というキャッチフレーズが教育現場では主張され、実際に教えられる知識は大幅に減っているのも事実です。その極北が「ゆとり教育」でしょう。

 

しかし知識は本当に必要ないのでしょうか。

知識を軽んじて思考力だけを重視すると「フェイク」に騙されやすくなります。「フェイク」に対抗するためには「ファクト」とそれに基づく「正しい思考力」が必要であり、この両者はどちらが欠けてもうまくいきません。つまり「詰め込み教育」は全否定されるべきものではありません。しかしそれでもやはり「詰め込み教育はダメ」です。

 

ではなぜ「知識の詰め込みはダメだ」なのでしょうか。

 

詰め込まれた知識は定着しない

保護者の皆様にお尋ねします。皆様は中学時代に学んだことのどれくらいを現在覚えていらっしゃるでしょうか。ちなみに私はほぼ忘れています。自分の専門であるはずの日本の歴史に関する知識もほぼ忘れています。室町幕府の専門家であるにも関わらず、応仁の乱が1467年に起きたことは、塾講師の仕事を始めるまですっかり忘れていました。数学のことなど何一つ覚えていません。

 

詰め込んだことは忘れるのです。しかし中学校で一番怖い先生がしかめっ面をしながら「今日は大変残念なことがありました。チョコレートの銀紙が体育館の裏に落ちていました」と全校生徒を集めて叱りつけたことは未だに忘れられません。「チョコレートかい!」とその時心の中でツッコミを入れた思い出とともにです。これはつまり面白い、と思ったことは人間は忘れない、ということも示しています。

 

詰め込み教育がダメな理由1

こう考えてきますと、「なぜ詰め込み教育はだめなのか」ということの答えが見えてきましたね。「知識の詰め込み」が悪いわけではないのです。興味もなく、将来役立つかどうかも分からないクソみたいな知識を覚えることを強制されることが悪いのです。はっきり言って学校や塾の歴史の授業を受けて歴史好きにはならないと思います。逆はあります。歴史に興味を持ったから、学校の授業も楽しく受けられて歴史がより好きになった、と。しかしこの場合はもともと好きだったので楽しいのであって、学校や塾の授業で好きになったのではないですね。

ちなみに私が授業で基本的にうるさく言わずに生徒受けを狙った話ばかりしているのは、そういうことです。つまり楽しい思い出とともに勉強したことはいつまでも覚えてくれます。まあもう一つは受験生は家でも塾でも緊張を強いられています。たまには緩めるところがあってもいいのではないか、と思ったからです。

ちなみに「ダメな理由」はこれだけではありません。もっと重要な問題があります。

 

なぜ苦しいことをやらされるのか

私は昭和の時代に学校教育を受けてきました。私のいた地域はゆるい地域で、管理教育とは言えないゆとりのある教育だったと思います。それでも「運動中は水を飲むな」とか「制服を着ろ」とか「制服の詰め襟はフックを閉じろ」とか私からすれば理不尽な決まりごとがありました(私は首が太く短いので詰め襟は苦しいのです)。

世の中には学校で理不尽な校則が現在でも多くあります。校則を支持する側はおそらくこういうでしょう。「社会に出た時の訓練だ」と。

「いやいや、そんな会社、めっちゃブラック企業や」と私などは思います。しかし実はそれは一つの真理なのでしょう。要するに学校教育を耐えきるとブラック企業でも通用する、と。確かにブラック企業に勤める企業戦士を送り出す人材養成機関という側面は学校に求められているのは事実です。

これは日本の教育そのものの目的でもあるわけです。

 

ブラック校則は日本の教育の肝だった

日本の教育の歴史をごく簡単に見ておきます。

日本の公教育は学制によって始まりますが、この学制、フランスの教育を取り入れています。フランスではいわゆる義務教育を導入していますが、これは均質な国民を作り出し、彼らを軍隊として組織するために作られたものだ、と言われています。フランス革命の結果「国民」という集団が作り出され、「国民」によって構成される「国民国家」が成立した、と考えられています。その国民国家を守るために国民が主体となる軍隊が作られたわけです。

「学校って軍隊みたい」という意見は時々目にしますが、実は軍隊と学校は密接な関係があったのです。特に明治日本においては「富国強兵」のスローガンのもと、学校と軍隊が非常に強い関係を持って組織されていきました。日本の学校に軍隊の名残(整列・制服・遠足・運動会・体罰・ランドセルなど)が多く存在するのには歴史的な由来があったのです。

そして戦後、軍隊とは関係がなくなったはずの学校ですが、戦後も引き続き軍隊的な側面は残りました。これは一面では戦後の日本には大日本帝国の残滓が色濃く残っていたこともありますが、もう一つはこの学校のシステムは戦後の経済発展にも非常にマッチしたからです。

「言われたことを忠実に実行する人間」を育てるためには「言われたことを忠実に実行する」ことを強制し続けることです。日本の学校・塾で「言われたことを忠実に実行すること」を求められるのは、そこに原因があります。「詰め込み教育」も詰まる所、「言われたことを忠実に実行すること」に他なりません。そしてそれをしっかりとできた生徒がエリートとして一流の学校に行けるのです。そしてそういう人材が出世していくのです。そしてそれは確かに近代社会の建設においては必要なことだったのです。

 

詰め込み教育は近代的な勉強法

戦前・戦後を通じて、つまり日本の近代において「詰め込み教育」「管理教育」は「従順な人間」を生産し続けてきたのです。工業が発展し、工場でマニュアルに従って仕事をする人材が大量に必要になった時、詰め込み教育・管理教育は力を発揮してきました。その意味で詰め込み教育は近代を支えた教育と言えました。

近代社会と我々が呼ぶ社会はフランス革命とその後の政治過程による国民国家の成立と、人力から動力という第一次産業革命によって成立しました。石炭と蒸気エネルギーから石油や電力の利用という第二次産業革命によって大量生産・大量消費というライフスタイルは確定し、それを支えるために工場で「指示を忠実に守って働く人間」が必要とされます。

そのような人間を育てるためには、すでに存在する正解を暗記し、暗記した通りに書くことを求める教育がうまくフィットしたのです。

しかし1960年代後半からのオートメーション革命によってこの状況は変容します。

 

詰め込み教育がダメな理由2

現在AI(人工知能)革命という言葉が喧伝されています。人工知能の開発によって人間はかなりの職を失う、だから新しい学力をつけなければならない、というものです。しかし残念ながらこの議論は50年は遅れています。

1960年代に始まった電子工学の発展とオートメーション革命によって多くの職が機械に取って代わられました。今日AI革命と呼ばれているものの本質は、オートメーション革命と変わりありません。

オートメーション革命の結果、工場ではロボットがそれまでの作業員の仕事を代替し、駅では自動券売機と自動改札機が駅員の仕事を代替しました。その結果、工場では管理、駅では乗客の相手、という「人間にしかできない仕事」を担当しています。

そしてIT革命が1990年代に進行し、知的な部分まで人間の機能を代替するようになりました。近年ではコンピュータが講師をやっている塾も出現しています。塾講師も機械化され、代替されてしまうのです。

オートメーション革命段階では、頭脳労働、知的労働まで代替することはできませんでした。従って頭脳に知識を詰め込み、それをそのままアウトプットする人材は社会に必要とされたのです。

しかしIT革命で出現したIT社会では情報は頭の中に詰め込まなくても、外部にあります。必要な時にそれを取り出せばいいのです。こういう社会では、覚える能力よりも調べる力が要求されます。ただ知識が全く必要なくなるわけではありません。検索すれば出てくる知識は詰め込む必要はありません。逆に根幹となる知識は身につけ、使いこなすことが求められます。

要するに知識を詰め込み、それをそのまま吐き出すだけの教育ではこれからの社会の変化についていけない、ということなのです。逆に重要な知識はしっかりと身につけ、それをベースに調べ、確かめ、考え、表現する力が必要とされます。

詰め込み教育はこれからの社会についていけなくなる人材を育てるだけです。新しい教育が必要とされる所以です。

 

楽しくなければ勉強にならない

では調べ、確かめ、考え、表現する力を身につけるにはどうすればいいのでしょうか。

実は大学という場はこの四つの力が必要とされる場です。本来ならば。しかし詰め込み教育を受けてきた人材が大学では適当に流してそのまま社会に出て、主要な地位を占めた結果、大学で本来身につけるべき、調べ、確かめ、考え、表現する力は軽視されてきました。しかしこれからの社会、調べ、確かめ、考え、表現する力が必要になる、ということは社会的コンセンサスを得てきています。文部科学省も調べ、確かめ、考え、表現する力を評価するようになってきている、と文部科学省に期待する声もあります。私はその意見には賛成できません。文部科学省が本当にそう考えているのであれば、大学の、調べ、確かめ、考え、表現する力を最大限発揮できるようにするはずです。この30年ほどの文部科学省の「改革」は逆に産業に大学を合わせ、詰め込み教育を大学に強いる方向に進んでいます。私は今後の文部科学省の改革、そしてその文部科学省がリードする学校制度というものにはあまり期待をしていません。

 

では我々はどうすればいいのでしょうか。

それは楽しみながら学ぶことです。どんなに勉強のできない人でも、自分の好きなことについては自発的に調べ、確かめ、考え、表現するでしょう。その楽しさを勉強にも活かせばいいのです。勉強は楽しいものです。また楽しくやるべきものです。私はこの25年以上の教員生活(塾および大学)でその考えを確立し、実践してきました。

 

保護者の皆様も勉強を楽しんでください。保護者の皆さんが勉強を楽しめば、お子様も勉強を楽しくするはずです。叱るのではなく、励ます。やる気の出ない時には寄り添ってあげる。甘く見えるかもしれませんが、お子様が楽しむことが、これからの社会に役立つ人材になる最短コースである、と考えます。

 

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