歴史の大きな流れを押さえようー大正時代2

3 大正時代の政治の流れ

 

⑴ 第一次護憲運動

テキストには藩閥や公家から選ばれていて、長州の桂太郎と公家の西園寺公望が交互に内閣を組織していたが、第三次桂太郎内閣成立時に藩閥政治を倒す運動である第一次護憲運動が行われ、桂内閣は総辞職、と書いてあります。

 

間違ってはいませんが、はしょりすぎとも思います。もう少し丁寧に説明しないと、なぜ軍部が力を持っていって、ああいう無謀な戦争をやらかしてしまったのか、説明できません。こういう断片的な知識を無理矢理に暗記させるから、歴史は暗記科目で面白くない、となったり、あとでヘンテコな歴史観にはまったりするのではないか、と思っています。

 

桂太郎は山縣有朋直系の長州藩閥であることは間違いがありません。陸軍軍人を経て総理大臣になっています。一方西園寺公望を「公家」とするのは問題が多すぎます。確かに西園寺は公家ですが、同時に彼は伊藤博文の弟子であり、立憲政友会という自由党の後を継ぐ政党の代表です。つまり西園寺は政党政治を代表する政治家です。

 

藩閥政治の桂太郎政党政治の西園寺公望が交互に政権を担当していた時代を「桂園時代」と呼びます。この時代は日英同盟から日露戦争、条約改正と日本が国際的地位を高めていく時代で、日本を列強に押し上げた桂太郎と、日本のデモクラシーを作り上げた西園寺公望のバランスのもと、大日本帝国は安定した時代を作ることになります。

桂太郎総理大臣

西園寺公望総理大臣

桂園時代の終わりは第二次西園寺内閣の時に訪れました。

 

陸軍は日露戦争後のロシアとの戦争の可能性を主張して陸軍をさらに増やしていくことを主張します。それに対して西園寺公望総理大臣は財政面を中心に反対します。上原勇作陸軍大臣は辞表を提出し、陸軍は後任の陸軍大臣を出しませんでした。

 

当時、「軍部大臣現役武官制」という制度があり、陸軍大臣と海軍大臣は現役の大将・中将に限られていました。したがって軍部(陸海軍)の意向に反した内閣は容易に倒すことができたのです。西園寺内閣はその犠牲の第一号でした。

 

西園寺内閣の後継内閣として第三次桂太郎内閣が組閣されますが、それに対して尾崎行雄犬養毅といった政党政治を推進する人々が第一次護憲運動を起こし、多くの群衆が国会を囲むデモを行った結果、第三次桂太郎内閣は65日という史上二番目の短命内閣となりました。ちなみに桂太郎自身は安倍晋三総理大臣に抜かされるまで総理大臣在任記録を作っています。

 

板書

桂園時代(長州閥の桂太郎と立憲政友会の西園寺公望)

西園寺内閣←陸軍による倒閣

→尾崎行雄・犬養毅による第一次護憲運動→桂太郎内閣倒閣

 

⑵ 第一次世界大戦中の内閣

① 第二次大隈重信内閣

大隈重信内閣は二十一か条の要求を出し、五・四運動を引き起こしています。

大隈重信総理大臣

② 寺内正毅内閣

寺内正毅内閣は陸軍長州閥の内閣です。立憲主義を敵視したため、「非立憲(ビリケン)内閣」と呼ばれました。もっとも顔も似ていると言われます。

 

寺内正毅総理大臣の写真です。

寺内正毅総理大臣

「ビリケン」とはこちらです。

 

本人は結構「ビリケン宰相」というあだ名を気に入っていたようです。

寺内内閣の時にロシア革命が起こります。社会主義革命が自分の国に影響を及ぼすことを恐れた各国はシベリアに軍隊を送ります。これをシベリア出兵といいます。

これは他の国々はさっさとあきらめて帰ってしまうのですが、日本は出兵を続け、かなりの広い範囲を占領し、そのために出費も大きく、またコメを確保するためにコメの値段が上がりました。それに怒った魚津(富山県)の主婦たちが米屋を襲う事件が発生し、それが全国に拡大して米騒動と言われる大事件に発展しました。

 

寺内内閣は軍隊を動員してデモを抑えにかかりますが、それがまた反発を生んで全国的なデモの発生につながり、寺内正毅総理は内閣総辞職に追い込まれました。

 

③ 原敬内閣

寺内内閣のあとに内閣を組織したのは立憲政友会原敬です。原敬は華族ではないはじめての総理大臣(総理になれば爵位を受けて華族になるのが慣例だったが、原はそれを辞退しました)で「平民宰相」と呼ばれました。実際は士族ですが。

原敬内閣は初の本格的な政党内閣と呼ばれます。「本格的な政党内閣」というのは、軍部大臣と外務大臣を除く全ての閣僚(大臣)が政党出身であることを意味します。ちなみに初の政党内閣第一次大隈重信内閣(隈板内閣=大隈重信と板垣退助の連立内閣)です。

原敬総理大臣

原敬内閣では普通選挙法(納税額による制限をつけない選挙)への期待も高まりましたが、原はそれを否定し、選挙権を広げることにとどまりました。

 

原は東京駅で暗殺され、原内閣は終わりました。

 

⑶ 第二次護憲運動と普通選挙法

原敬内閣のあと、高橋是清(立憲政友会)・加藤友三郎(海軍大将・立憲政友会)・第二次山本権兵衛(退役海軍大将・挙国一致内閣)と続きます。加藤友三郎内閣では加藤総理の死去と総理大臣不在の空白に関東大震災が起こり、山本権兵衛総理による挙国一致内閣つまり与野党を超えた緊急内閣が組閣されます。

 

山本内閣は皇太子(のちの昭和天皇)の暗殺未遂事件の責任をとって総辞職、貴族院を基盤とする清浦奎吾内閣が成立します。しかし貴族院議員を中心に組閣したため、政党を中心とする衆議院との関係が悪化し、政党や議会に束縛されない超然主義を唱えた清浦内閣は選挙で野党の護憲三派(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部)に敗北します。憲政会の加藤高明を中心に高橋是清(立憲政友会)・犬養毅(革新倶楽部)の護憲三派の連立内閣が組閣されました。

 

加藤高明内閣は1925年普通選挙法を成立させ、ここに選挙権は「25歳以上の男子」となりました。

加藤高明総理大臣

一方で思想を取りしまる治安維持法が制定されました。制定当初は社会主義思想、無政府主義などを取り締まる法律ということでしたが、やがて自由主義、さらには反戦運動も取り締まられるようになり、戦争を止める機会を失わせることにもなりました。

 

板書

1918年 米騒動←シベリア出兵による米不足

富山県で暴動→全国に→軍隊出動→寺内正毅内閣総辞職

原敬内閣←初の本格的な政党内閣、「平民宰相」→普通選挙法は行われず、直接国税3円以上を納める25歳以上の男子

1924年 清浦奎吾内閣の超然主義

第二次護憲運動←護憲三派

加藤高明内閣→1925年 普通選挙法(25歳以上の男子)、治安維持法の制定

 

 

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