戦国時代のポイント1
戦国時代については次の通りの流れで大丈夫です。
応仁の乱による室町幕府の衰え
下克上による戦国大名の形成
そして大きなポイントは二つです。一つは西洋人の来航、もう一つは織田信長と豊臣秀吉です。その辺を整理しておきましょう。
目次
1 戦国大名
(以下次回以降)
2 ヨーロッパ人の来航
3 織田信長の統一事業
4 豊臣秀吉の統一事業
1 戦国大名
戦国大名とは実力でその土地を治めた大名のことをいいます。しばしば「下克上」という言葉が使われますが、ご存知のように守護大名がそのまま戦国大名化するケースもありますので、必ずしも「下克上」とは言えません。とは言っても既存の権威に頼らずに、自らの力で治めていく大きな勢力を「戦国大名」と呼んでいます。
守護から戦国大名化した代表的な大名が甲斐国の武田氏と駿河国の今川氏です。いずれも出自は守護でしたが、自らの力で領国内の勢力を自らの家中に組み入れ、また国衆と呼ばれた中小の領主を支配下に組み入れて一国レベルを支配していきました。その時に観念的な権威として利用する以外の上の権力、例えば幕府や朝廷の支配には服していない、という点が前代の守護大名とは異なる点です。今川氏にしても足利一門という権威に寄りかかっていますが、足利将軍の命令によって駿河を治めているわけではありません。
守護代から戦国大名化したのは有名どころでは越後国の長尾氏が有名です。越後国の場合は守護だった越後上杉氏は没落しており、守護代の長尾氏が越後国を統一しました。
守護代の一門から戦国大名化したのも守護代とほぼ同じと考えていいでしょう。尾張国の守護の斯波氏は没落しながらも尾張一国にかろうじて勢力を保っていました。そして守護代は二つに分裂し、やがて守護代の織田氏が守護を殺害して乗っ取ろうとしました。守護の息子の斯波義銀はかろうじて脱出し、守護代の一門の織田弾正忠家の織田信長を頼り、最終的に織田信長が尾張を統一します。
国人という中小の勢力から戦国大名となったのは中国地方の毛利氏と東北地方の伊達氏が有名です。彼らはいずれも鎌倉時代以来の長い伝統を持つ家であることに注意する必要もあります。特に毛利氏は大江広元の子孫で、南北朝時代に安芸国の地頭に任命され、以来安芸国に勢力を保っていました。
彼らは「分国法」と呼ばれる独自の法令を作りました。戦国大名は領内の争いを避けるためにしばしば「喧嘩両成敗」のような争いを禁止する法令を出しています。また戦国大名は領国を統治するために家臣を城下に集め、商人を集めたりして城下町を形成させています。
ここで喧嘩両成敗について少し話をしますと、一般には「喧嘩をしたら理由にかかわりなく両方とも処罰する」という、かなり無茶苦茶な法令という感じに捉えられがちですが、これは中世的な「自力救済」を否定したものです。中世においては自分の力のみが頼りです。争いがあれば最悪お互いに戦って決着をつけるしかないことがしばしばありました。「自分の身は自分で守る」ことを「自力救済」といいます。喧嘩両成敗はいわば自力救済を否定しているわけです。そして大名がその法に基づき理非の裁定を下し、それを執行することを宣言したものが「喧嘩両成敗」です。
もう少し詳しくやりだすと、それぞれの主な分国法を覚えさせる問題も出てくるでしょう。したがってまずは主な戦国大名とその地域を押さえておく必要があります。
私の独断と偏見で押さえておくべき戦国大名は以下の通りです。
東北地区、伊達氏
関東地区、北条氏
北陸地区、上杉氏(長尾氏)、朝倉氏
東海地区、今川氏、織田氏、斎藤氏
近畿地区、三好長慶、浅井氏、将軍足利義輝と足利義昭もよろしく
中国地方、毛利氏
四国地方、長宗我部氏
九州地方、大友氏、島津氏、龍造寺氏
以上が私の独断と偏見で選ぶ入試で出そうなイメージの戦国大名です。
個人的には東北地区の安東氏、南部氏、津軽氏、浪岡氏、蠣崎氏を強く推しておきたいです。
では次回はヨーロッパ人の来航についてです。