室町時代の歴史1ー南北朝時代

室町時代の解説です。

 

室町時代とは1338年から1573年までのことを指しますが(細かいことを言えばいろいろ議論がある)、最初の60年ほどを南北朝時代、最後の100年ほどを戦国時代といいます。

 

今回は南北朝時代を見ていきます。

 

南北朝時代を理解するためには鎌倉時代末、蒙古襲来(元寇)のころまで遡らないといけません。

 

後嵯峨天皇は自分の息子の後深草天皇に位を譲って院政を敷いていましたが、弟の亀山天皇を即位させ、さらに亀山天皇の皇子を皇太子にします。これに怒った後深草上皇は幕府にねじ込んで、当時の執権の北条時宗が後深草の子孫と亀山の子孫が交互に皇位に就く方式を提案(ここも議論ありですが、気にしないでください)します。その結果後深草の子孫の持明院統と亀山の子孫の大覚寺統が交互に天皇に就くことになります。

 

大覚寺統から出た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を倒そうと考えます。

 

二回失敗します(これも議論があります。私は一回と思っています)。

 

しかし見方をしてくれる武士がいました。楠木正成が有名です。

 

さらに幕府の御家人にも裏切る人物が出てきました。足利尊氏と新田義貞です。

 

こうして幕府は滅びました。

 

後醍醐は天皇中心の政権を作り上げます。しかし公家ばかり優遇したので武士の反発を買ってしまいます(これも議論があります)。また全てを天皇の命令(綸旨)で決定しようとして混乱が生じます(これも議論があります)。

 

足利尊氏は幕府の混乱を見て兵を挙げました(ここでそのきっかけはガン無視しています。中先代の乱については高校で学びます)。

 

兵を挙げた尊氏はいろいろあって(中学では北畠顕家が出てきます)、九州に落ち延びますが、そこから復活して京都を占領し、後醍醐は吉野に逃げます。尊氏は京都に持明院統の光明天皇を立てます。尊氏の立てた朝廷を北朝といい、後醍醐が吉野で立てた朝廷を南朝といいます。京都と吉野で二つの天皇が並び立っていた時代を南北朝時代といいます。

 

1338年、尊氏は征夷大将軍に任命され、京都に幕府を開きます。これはのちに孫の足利義満が作った室町第という、室町通りに面した幕府の屋敷にちなんで室町幕府と呼ばれます(1336年の建武式目の制定によって事実上幕府が成立している、という話はとりあえず気にしなくていいです。高校で学びます)。

 

守護は戦乱の中で単なる軍事指揮官としての地位に加え、行政権を獲得し、国内の武士を従えていきます。そのような守護を守護大名と呼びます(議論がめちゃくちゃあります)。

 

南朝を圧倒した足利義満は1392年、南北朝の合体を成し遂げます(観応の擾乱という非常に大事な戦乱があるのですが、高校で習います)。

 

とりあえず後醍醐天皇、足利尊氏、足利義満は覚えてください。後醍醐天皇と後鳥羽上皇を間違える事案が頻発しています。しっかりと理解しましょう。

 

ちなみに「ゴダイゴ」というバンドがあります。由来がリーダーのミッキー吉野さんが「吉野」から後醍醐天皇を連想したことに由来するそうです。

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