ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します足利義昭 2

戦国IXAの武将を説明するシリーズの足利義昭編です。

前回の記事はこちらです。

ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します1足利義昭

 

戦国IXAの足利義昭2012年バージョンの絵です。

前回は織田信長に擁立されて室町幕府15代将軍になったところ、つまり「天下布武」の実現まで見てきました。

今回は織田信長と足利義昭の関係について見ていきたいと思います。この時期の信長の方針は「天下静謐(てんかせいひつ)」つまり足利将軍家のもと、畿内の平穏が保たれることを目標としていました。


虚像の織田信長 覆された九つの定説

 

足利義昭が織田信長の傀儡(かいらい=操り人形)だった、という見方は根強いです。しかし虚栄心が強いくせに無能な足利義昭は信長を邪魔に思って排除しようとし、逆にやられた、というのが古典的な理解だったと思います。

それに対し「織田信長包囲網」を作ったりしてなかなかの人物だったのではないか、という見方が最近のドラマなどでは多用されています。

 

まず第一のポイントは「義昭は信長の傀儡だったのか」ということでしょう。

本日は義昭の室町幕府をみていきます。

1 義昭と信長の蜜月

義昭は室町幕府を再興するにあたって信長を是非とも取り込みたいと考えたようです。義昭は三管領家をなんとか復帰させようと三好三人衆を行動を共にしていた細川六郎を自陣営に迎えて自分の一字を与えて昭元と名乗らせ、自分に以前から従っていた畠山昭高(秋高が正しいらしい)とともに管領家を復活させましたが、斯波武衛家の斯波義銀(よしかね)は信長を排除しようとしてすでに信長に追放され、その後信長に許されて津川義近と名乗り織田家中に組み入れられていたため、不在でした。義昭は信長に斯波家の家督と管領職を渡そうとしましたが、信長はこれを固辞します。斯波武衛家の家督も尾張守護の地位も管領も信長の構想にとっては無意味なものだったのでしょう。信長にとって必要だったのは室町幕府の権威だけであって、幕府の内部に深入りするほどの気はなかったと考えられます。

その結果、室町幕府と織田信長が役割を分担する、という二重政権の形になった、という見方が有力です。つまり裁判や土地の保障や守護の任免などは義昭を頂点とする幕府が、軍事・警察権は織田信長が担当する、という形です。そしてこのような二重政権は末期の室町幕府ではしばしば多用されていたとも見られています。例えば足利義稙政権と大内義興、足利義晴政権と六角定頼・三好長慶などの関係がまさにそうです。

信長が義昭に突きつけたとされる「殿中掟」には「奉行衆に意見を聞いた以上は将軍が直接裁決してはいけない」「奉行衆を通さずに直接将軍に訴え出てはいけない」など、将軍の権力を制約する文言があるところから、信長が義昭を抑圧し、それに義昭が反発した、と見られてきました。しかしこのようなあり方は信長ー義昭に限られたものではなく、むしろ室町幕府において将軍の独裁を防ぐためのシステムとして常に採用されてきたものであることが明らかになってきました。

また信長が義昭の権力を厳しく削った、とされる「五箇条条書(ごかじょうじょうしょ)」についても、近年ではあくまでも信長と義昭の権限を確定した、という見方が有力です。義昭の御内書(ごないしょ=将軍の命令を伝える文書)に信長の副状を付ける、というのも特におかしなことではありません。この辺は室町幕府の政治史、古文書学を一通り理解していればそれほどややこしい話でもありません。しかしその辺をしっかりしていなければ「信長が義昭の権力を押さえ込もうとしている」としか見えないかもしれません。

特にこの条書の第四条は「天下のことについては何事も信長に任せられたのであるから、誰をも通さず、上意も得ることもなく信長の思い通りに行う」というように訳すると、信長の好き勝手にできるように読めます。これが「翻訳」の難しいところで、言葉を現代の我々と同じ意味で使っているか、という点を吟味しないといけません。しかし「天下」「成敗」の意味を考えれば、現在の我々が想像するように信長に全権が与えられた、と考えるのはあまりにも単純な「翻訳」です。この場合「天下」というのが義昭を頂点とする畿内の秩序と解釈すれば、義昭の権力を維持するために信長は必要な措置、つまり軍事的な「成敗」を講ずる、という意味に訳すべきです。

つまりこの「五箇条条書」によって信長は室町幕府の名前で自分の軍を動かすことができ、室町幕府は信長の軍を室町幕府の軍として扱うことができる、という形になっているわけです。

 

2 織田信長包囲網とは何だったのか

戦国IXAでカードを入手するには「くじ」を引きます。くじを引いた時に出た武将の説明をしてくれるのですが、義昭については昨日示しましたように紹介してくれています。

その中にこのような文言があります。

「将軍の権威を蔑ろにする織田信長に対し、諸将と連携して信長包囲網を張ったワン!」

「信長包囲網」といっても実は3回作られています。よほど信長はあちらこちらから目の敵にされていたのでしょう。そういえば面白いネタを見かけました。どこで見かけたのか、覚えていませんが、一応次のようなネタです。細かいところは覚えていなかったのでこちらでアレンジしています。

 織田信長「朝廷をもっと大事にしないとお兄さんみたいになりますよ?」

 足利義昭「タヒね」

 織田信長「ちょw、信玄さん、竹千代くんと何かあったの?」

 武田信玄「市ね」

 織田信長「ちょw、謙信さん、なに本願寺と和睦しちゃってるんすかwww」

 上杉謙信「Shine!」

 

第一次信長包囲網と呼ばれるものは、信長が朝倉義景の上洛を求めたところ、拒否されたために出兵中に浅井長政に裏切られ、京都に命からがら逃げ帰ったあとに形成されたものです。姉川の戦いで勝利した信長・徳川家康連合に対し、比叡山延暦寺・長政・義景・荒木村重・三好三人衆などが信長打倒を掲げて立ち上がりますが、信長は正親町天皇と義昭を動かして和睦を結んでしまいます。したがって第一次信長包囲網では義昭は信長と共同歩調をとっており、義昭も場合によっては包囲の対象だった、ということもいえます。

 

第二次信長包囲網はもう少しややこしく、義昭が武田信玄らに御内書を出し、信長包囲網を構築したかのように考えられがちですが、実際近年の研究では信長と信玄の決裂はもっと遅く、義昭が信玄に御内緒を出しているころはまだ信玄と信長は親しかった、と見られています。

しかし義昭が信長と本願寺の和睦を信玄を仲介して行わせようとしたことから雲行きが怪しくなります。信長としては室町幕府の権威はあくまでも信長が独占したいところです。しかし義昭は信長に全てを委ねるのはリスクが高すぎます。義昭・信長の両者にとって脅威である本願寺顕如の妻は幸いにも信玄の妻と姉妹でした。義昭はそこに賭けたのでしょう。しかしこれは信長との取り決め違反でした。信長と義昭の関係は明らかに悪化します。

信玄と信長の関係の決裂を決定づけたのは、上のネタでもありますように徳川家康との関係がややこしくなったからです。信長と家康の同盟と同時に信長は信玄とも同盟を組んでいました。しかし信玄と家康は遠江の支配権をめぐって対立関係にあり、信玄が家康の領土に侵入を開始した時に信長と信玄の関係も決裂しました。信長は家康に援軍を送りますが、織田・徳川連合軍は三方原で無惨な敗北を遂げます。

信玄の遠江侵攻を受けて義昭は信長を見限ったようで、三方原の合戦直後に信長は伊達輝宗(伊達政宗の父親)宛の書状で義昭への怒りを表明しています。信長はこのころ上杉謙信にも信玄の「裏切り」への怒りを表明しており、信長にとっては大変な時期だったと思われます。

 

ブチギレた信長は義昭に対して「異見十七箇条」を出し、義昭が朝廷を蔑ろにしていること、義昭の依枯贔屓が幕臣の間の分裂と不満を招いていること、義昭が金品を強引に集めていることなどを非難しています。

このころの信玄や本願寺などによる信長への敵対行為を第二次信長包囲網と呼んでいますが、始まりの元亀二年(1571)あたりはまだ信長と義昭は対立を深めておらず、信長と信玄の決裂が元亀三年(1572)9月以降、義昭と信長の決裂が元亀三年末と考えられることなどを見ると、第二次信長包囲網の存在が義昭と信長の離反を誘った、といえそうです。

義昭は三方原の合戦における信長・家康連合軍の惨敗を見て挙兵しましたが、最悪のタイミングで信玄が病死し、信長は一息つきました。ここに信長包囲網は崩壊しました。

足利義昭3に続きます。ここでは室町幕府の滅亡と鞆幕府論について説明します。

 

 

記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。

Copyright © 2010-2020 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

フォローする