『乱世の天皇』副読本1ー両統迭立

拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)は一応東京堂出版という歴史・古文書を中心とした出版社から出ています。そのため、かなりコアな歴史ファン相手のため、全く歴史をご存じない人にとっては通読するのは少し骨が折れるかもしれません。私が教えている塾の教え子も購入してくださっていたりするので、ここでしばらく『乱世の天皇』を読む際に知っておいて損はない歴史知識を解説していきます。

まず第一回は「両統迭立」を解説していきます。ちなみに「りょうとうてつりつ」と読みます。この「両統迭立」を理解しておくと、南北朝時代という時代がよくわかります。学校の授業もワンランク上の知識を身につけることでよりわかりやすくなる、と思います。

そもそも「両統迭立」とはどういう意味でしょうか。一言で言えば、天皇家が分裂し、代わり番こに天皇を出す状態になることです。

日本の歴史上、両統迭立は二回おきました。一回目は平安時代の真ん中です。

村上天皇のあとに天皇になったのは冷泉天皇でした。しかし冷泉天皇は精神病であったと言われています。これについては議論がありますが、とりあえず一般に言われていることに従います。容姿端麗(ようするにイケメン)だったようです。しかし精神疾患のために2年で弟の円融天皇に天皇の位を譲ります。

円融天皇の次に天皇になったのは冷泉天皇の皇子の花山天皇でした。しかし花山天皇は藤原兼家(藤原道長の父親)によって天皇の位を引きずり降ろされ、兼家が推す一条天皇が即位します。一条天皇のあとは冷泉天皇の皇子で花山天皇の弟の三条天皇が即位しました。

藤原道長は両統迭立は望ましくない、と考え、皇統の一本化を進めます。三条天皇に嫌がらせを繰り返して三条天皇を追い込んで後一条天皇に譲位させます。三条天皇は譲位するかわりに自分の皇子を皇太子にしますが、三条天皇の死去後には皇太子を追い込んで辞退させ、円融皇統に天皇家を統一します。

二度目の両統迭立は鎌倉時代に起こります。この時の両統迭立については拙著『乱世の天皇』に書いてあります。系図も『乱世の天皇』の12ページをご覧ください。

もう少しわかりやすく解説します。

後嵯峨(ごさが)天皇は自分の皇子の後深草(ごふかくさ)天皇に位を譲りましたが、その後もう一人の皇子を即位させます。亀山(かめやま)天皇です。これは二人の両親である後嵯峨天皇と大宮院西園寺佶子(きつこ)が後深草天皇よりも亀山天皇を可愛がっていたから、と言われています。

考えればひどい話で、さらに亀山天皇は自分の息子を皇太子に立てます。後深草天皇は死去するときに後継者を決めませんでした。鎌倉幕府に丸投げしたのです。後嵯峨天皇は鎌倉幕府のおかげで天皇になれたようなものでした。だから鎌倉幕府に任せたのは恩返しだったのでしょう。しかし鎌倉幕府にとっては迷惑な話です。鎌倉幕府は大宮院にたずねたところ、大宮院は「今のままでええんちゃうか」という返事でした。

そこで鎌倉幕府は亀山天皇とその子孫を天皇にすると一旦は決定します。亀山天皇の次は後宇多(ごうだ)天皇になりました。そこで後深草天皇がごねだします。それはそうですね。「オレ、何も悪いことしてないのに、なんで後継者から外されなあかんねん」というものです。

さすがに気の毒に思った鎌倉幕府は「後宇多天皇の次の天皇は後深草天皇の息子さんでどうですか」といいます。鎌倉幕府に逆らえません。ここに後深草天皇の子孫も天皇になることが決まりました。

亀山天皇の子孫はのちに後宇多天皇が大覚寺(だいかくじ)というお寺に住んだため、「大覚寺統」と呼ばれます。一方後深草天皇の子孫は、代々御所が持明院(じみょういん)というお寺の近くにあったために「持明院統」と呼ばれます。

鎌倉幕府では「元寇」(学問的にはモンゴル襲来ということが多いですが、小学生・中学生及びそのご父母を対象としている本ブログでは教科書に多く使われている言葉にします)のあと、北条時宗が死去したことをきっかけにした争いがおこりました。「霜月騒動」といいます。北条時宗の妻の実家である安達泰盛(あだちやすもり)が、北条時宗の家来である平頼綱(たいらのよりつな)と争い、滅ぼされます。安達泰盛の領地は御家人たちに元寇のほうびとして分けられたため、元寇の結果、御家人の不満が高まって鎌倉幕府の力が弱くなった、というのはウソです。

安達泰盛は亀山天皇と仲が良かったため、大覚寺統は安達泰盛の保護下にありました。しかし安達泰盛が滅ぼされると大覚寺統の立場は悪くなり、鎌倉幕府の将軍も後深草天皇の皇子の久明(ひさあきら)親王になります。そして幕府は後宇多天皇から伏見天皇に天皇を変え、さらに伏見天皇の皇子を皇太子にします。ここに持明院統が天皇を独占するかのように見えました。

しかし張り切りすぎた伏見天皇に対し、幕府も警戒します。さらに幕府でも平頼綱が滅ぼされ、安達泰盛に近かったグループが力をもち、伏見天皇は自分の皇子の後伏見(ごふしみ)天皇を天皇にしますが、鎌倉幕府は後宇多天皇の皇子を皇太子にします。そして後伏見天皇はさずか3年で天皇をやめさせられ、後宇多天皇の皇子の後二条(ごにじょう)天皇が天皇になります。

後伏見天皇の皇太子となったのは後伏見天皇の弟の富仁(とみひと)親王でした。そして後二条天皇が急死して富仁親王は天皇になります。花園天皇といいます。

花園天皇は後伏見天皇に子供ができるまでのワンポイントリリーフでした。

一方後二条天皇の死去と花園天皇が天皇になったことを受けて大覚寺統の後宇多天皇は勝負に出ます。後宇多天皇が皇太子に据えたのは花園天皇よりも十歳も年上の尊治(たかはる)親王でした。

これは後二条天皇の皇子の邦良(くによし)親王が後宇多天皇の本命だったのですが、ここで邦良親王を皇太子にすると、その次の皇太子には持明院統から出ることになります。そこで後宇多天皇は尊治親王をワンポイントリリーフとして邦良親王の成長を待ち、大覚寺統による天皇家の独占を狙ったのです。

花園天皇は十年たって天皇をやめさせられ、尊治親王が天皇になります。有名な後醍醐(ごだいご)天皇です。この後醍醐天皇だけは小学校で学んでいる皆さんは絶対に覚えておいてください。中学生・高校生・大学生ならばなおさら、社会人も当然覚えておくべき人物です。

後宇多天皇の考えはうまくいくはずがありませんでした。後醍醐天皇は自分の子孫に天皇を継がせたい、と考え、両統迭立をぶっ潰そうと考えます。そして両統迭立の大元である鎌倉幕府を倒せば自分の子孫が天皇になれるはず、と考え、鎌倉幕府を倒そうとします。

それは皇太子の邦良親王の死去がきっかけでした。邦良親王が死去し、後醍醐天皇は自分の皇子を皇太子にするように求めます。しかし鎌倉幕府は両統迭立の原則に従って持明院統の後伏見天皇の皇子である量仁(かずひと)親王を皇太子にしました。後醍醐天皇は「絶対に鎌倉幕府をぶっつぶしてやる」と決意し、立ち上がりました。これを元弘の変(げんこうのへん)と言います。

元弘の変で後醍醐天皇に協力したのが楠木正成(くすのきまさしげ)らでした。ゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を苦しめましたが、結局後醍醐天皇は敗れ、とらわれて隠岐の島に流されます。後醍醐天皇の次には量仁親王が天皇になりました。光厳(こうごん)天皇といいます。

しかし後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し、鎌倉幕府の打倒を呼びかけます。楠木正成の戦いも幕府を追い詰め、最後は足利尊氏や新田義貞という有力御家人にも裏切られて鎌倉幕府は滅び、京都を脱出した後伏見・花園・光厳天皇らはとらわれて後醍醐天皇のもとに送られ、光厳天皇は天皇ではなかったことにされました。

後醍醐天皇による新しい政治(建武の新政)は足利尊氏の離反によって失敗に終わり、尊氏は光厳天皇を盛り立てて室町幕府を立てます。後醍醐天皇は吉野に逃亡し、そこで室町幕府に対する戦いを開始します。足利尊氏は光厳天皇の弟を光明天皇として擁立し、光厳天皇による院政を開始させます。室町幕府のもとでの京都の朝廷を北朝といい、後醍醐天皇の朝廷を南朝といいます。

ここに天皇が二人並び立つ南北朝時代がはじまりました。

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