『乱世の天皇』の主人公の後花園天皇

最近出版しました『乱世の天皇』の簡単な紹介をしておきます。

 

『乱世の天皇』(東京堂出版)

 

ここに出てくる登場人物についてはおそらくほとんどご存知ないでしょう。小学校で学ぶ人物といえば足利尊氏と足利義満と足利義政と細川勝元と山名宗全の5人です。逆にいえばこの5人くらいは知っていて欲しいです。

 

本書の主人公である後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は高校の教科書でも出てきません。ほぼ無名の人物です。かつて私が「後花園天皇と嘉吉の乱・応仁の乱」という題で講演をした時に来て下さった方が80人ほどだったのですが、後花園天皇を知っていたのがわずかに二人、というところに後花園天皇の知名度が現れています。

 

1419年に生まれ、1429年に天皇になり、1471年に死去しています。つまり応仁の乱のころに亡くなっている、ということです。応仁の乱の直前に皇子の後土御門天皇に位を譲っている、とはいえ、院政を敷いていたわけですから、応仁の乱の時の朝廷の責任者であり、また父を早くに亡くした将軍足利義政の後見役を務めていた人物ですから、実は応仁の乱には後花園天皇も大きく関わっています。

 

後花園天皇は天皇家の生まれではなく、天皇家の分家の伏見宮(ふしみのみや)の出身です。伏見宮の先祖の崇光天皇が南朝の捕虜となり、代わりに弟の後光厳天皇が即位します。やがて解放された崇光天皇ですが、その子孫は天皇になれず、伏見宮家となりました。

後光厳天皇のひ孫の称光天皇は後継を残せずに亡くなりました。天皇家から後継者がいなくなり、あわてて伏見宮家から天皇として建てられたのが、当時10歳だった後花園天皇です。当時院政を敷いていた後小松上皇(上皇とはもと天皇のこと)の養子という形で天皇となったのです。

 

後花園天皇の前の称光天皇は体が弱かっただけではなく、気性が激しく、また父親の後小松上皇ともどもあまり有能ではなかったこともあって、天皇の権威は地に落ちていました。当時の4代将軍の足利義持(よしもち)が何とか天皇の権威を保とうと努力していました。

 

称光天皇には後継者が生まれず、伏見宮家から養子を迎えようという動きにも称光天皇は抵抗し、天皇の後継者が決められない状況が続きます。

称光天皇が亡くなって初めて次の天皇を立てることができたのです。しかも間の悪いことに称光天皇の亡くなる8ヶ月前には足利義持が急死して、弟4人でくじ引きをして将軍を決める、というドタバタがあったばかりでした。5代将軍の足利義量(よしかず)は父の義持よりも先に亡くなっていましたから、義持を継いだ将軍は6代将軍となります。くじ引きで選ばれたのは足利義教(よしのり)でした。義教は将軍になる準備が整う前に称光天皇から後花園天皇への代替わりを行うこととなったのです。一歩間違えれば天皇という地位そのものが無くなってしまいかねない事件でした。事実称光天皇が亡くなってから、後花園天皇が天皇になるまで十日間、天皇はいなかったのです。

後花園天皇(大応寺蔵)

 

後花園天皇の時代は室町幕府が音を立てて崩れていく時代に当たっていました。後花園天皇が24歳の時、室町幕府の将軍だった足利義教(よしのり)が、家臣の赤松満祐(みつすけ)に暗殺されます。赤松満祐は播磨国(現在の兵庫県西部)に逃げて、そこで兵を挙げます。幕府は大混乱に陥り、赤松満祐を倒すことすらできそうにもありませんでした。

 

当時の室町幕府の管領は細川持之(もちゆき)でした。有名な細川勝元の父親です。持之は赤松満祐を討つために頑張りますが、誰もいうことを聞いてくれません。さらに義教によって追放されていた有力大名の畠山持国は京都に上ってきて復活を狙います。またもう一人の有力大名の山名宗全は京都で暴れて手がつけられません。

 

持之は後花園天皇に「赤松満祐を討て」という命令(これを治罰綸旨(じばつのりんじ)といいます)を出してもらうことにします。天皇の命令を得て室町幕府は何とか赤松満祐を倒すことに成功しました。足利義教暗殺から赤松満祐滅亡までの一連の動きを「嘉吉の乱(かきつのらん)」と言います。小学校のテキストでは「将軍が大名に暗殺されたりしました」とさらりと流されるところです。しかし裏では天皇に頼る室町幕府の姿があったのです。

 

義教のあとをついだのはまだ少年だった足利義勝(よしかつ)です。義勝はその名前を後花園天皇からいただき、事実上後花園天皇は義勝の父親がわりとなります。

 

そのうちに細川持之が亡くなり、幕府の政治は義教の妻の日野重子、管領となった畠山持国、そして事実上室町幕府の将軍の代わりを務める後花園天皇となります。将軍の代わりを務めた天皇は彼一人です。

 

義勝は11歳で赤痢のため病死し、その後は義勝の弟の三春が幕府後継者に決定しますが、室町幕府の建物に赤松満祐ら、義教に殺された人々の亡霊が住んでたたりをなしている、といううわさが広まり、元服が見送られました。この間室町幕府の頂点に君臨したのは後花園天皇でした。

 

この間後花園天皇は南朝の生き残りに殺されかけたり、実の父の伏見宮家との関係が一時的に悪くなるなどの危機をのりこえ、三春が成人して8代将軍足利義政となると、室町幕府のトップの座を義政にゆずりますが、その後も幕府や朝廷に影響を与え続けます。

 

室町幕府を揺るがせたのは、畠山持国の後継者を、畠山義就と畠山政長が争ったことにあります。畠山氏の力を弱めようと考えた山名宗全と細川勝元は手を組んで畠山政長を支持して畠山氏を混乱させます。

 

足利義政はそのような中、フラフラと権力を適当に振り回し、幕府を混乱に陥れます。やがて畠山氏の争いは長禄・寛正の大飢饉(ちょうろく・かんしょうのだいききん)を引き起こし、京都市中でも10万人近い死体が転がっている、という状態になります。このような中、御所を作り、贅沢の限りを尽くしていた義政に対して後花園天皇は詩を贈って義政を叱りつけます。

 

やがて畠山氏の争いはこじれてしまい、最後は山名宗全が細川勝元を裏切って応仁の乱が始まります。この時宗全の行動にお墨付きを与えてしまい、応仁の乱の引き金を引いたのは後花園上皇(その前の年に皇子の後土御門天皇にゆずっています)は自らの戦争責任に苦しみ、何とか戦乱を終わらせようともがく中、脳の病気に倒れて亡くなります。その後も戦争は続き、室町幕府は崩壊して戦国時代となってしまいました。

 

そのような中、学問・芸能に秀でた後花園天皇によってボロボロになっていた天皇の権威は復活し、天皇はその後は危なげなく続いていきました。室町時代という、天皇にとって一番危険な時期を後花園天皇という優れた資質を持った天皇がいたことによって乗り切ることができたのでした。今日まで天皇が残ったのは、後花園天皇のおかげ、と言っても過言ではない、と思います。

 

名前は全く知られていませんが、実は日本の歴史上非常に大きな意味を持った天皇だった、と考えます。

 

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