鉄道から現代史が見える!戦争と平和を駆け抜けたC62
京都鉄道博物館では蒸気機関車の動態保存が行われています。その中でも人気のある蒸気機関車がC62です。京都鉄道博物館に保存されているC62は3両ありますが、特に人気なのは2号機です。その理由は除煙板にツバメのマークがあるからです。
C62は大変人気のある蒸気機関車で、銀河鉄道999のモデルでもあります。
このC62もまた戦争に翻弄され、平和な日本社会を支えて活躍した車両でした。
1 決戦機関車D52として落成
アジア・太平洋戦争が末期に入り、戦局は日本にとって日に日に不利になっていきます。そのような中、国鉄は軍需物資の輸送用にそれまでの最大の機関車であったD51をさらに大型化したD52を作ることにしました。
ちなみに同時期アメリカでは決戦機関車としてこんなものを作っています。
ユニオンパシフィック鉄道4000型蒸気機関車、通称「ビッグボーイ」
なんかこれだけで勝てる気がしません。
しかしD52が作られ始めて間もなく日本は戦争に破れ、軍需物資を運ぶ必要も無くなります。
2 旅客列車が足りない!
日本は海外植民地を失い、さらに戦地にいた軍隊も武装解除の上帰国してきます。旅客が急増し、旅客列車を引っ張る機関車が足りなくなりました。戦前に作られていたC57やC59の増備も行われましたが、車両の新造には当時日本を統治していた連合国軍総司令部(GHQ)の許可が必要です。その許可を取るのも大変ですし、何よりもGHQは日本が新しい車両を作るのにいい顔をしませんでした。
それに対してGHQの担当者が国鉄に助言します。曰く「改造ならば許可はいらない」
そこで考えられたのがD52のボイラーを転用して旅客用機関車に改造することでした。
D52の455号機は日立製作所笠戸工場でC62の2号機として生まれ変わりました。
3 東海道での活躍
1948年に完成したC62の2号機は糸崎機関区に新製配置され、しばらくは山陽本線で使われます。1949年には特急列車が東京ー大阪間に復活することとなり、公募の結果「へいわ」と名付けられます。その2年前には平和主義をうたう日本国憲法が施行されていました。
「へいわ」は翌年には戦前に親しまれていた「つばめ」に改称されます。ちなみに「へいわ」はのちに東京ー長崎間の夜行特急「平和」となりますが、やがて「さくら」に変更、最後の「平和」は大阪から広島に向かう昼行特急でしたが、電化が広島に到達し、東京ー大阪を結んでいた特急「つばめ」を広島に延長したことで消えます。
それはさておき、「つばめ」復活と特急の増発に伴い、特急を引っ張るために大阪の宮原機関区に転属、1951年には除煙板にツバメのマークがつけられます。名古屋ー大阪間の牽引に従事しますが、東海道本線全線電化に伴い、北海道に転属となります。
4 北海道での活躍
北海道の函館ー札幌間は海沿いを走る室蘭本線と日本海側を走る函館本線がありました。函館本線経由の急行列車は急勾配が多く、急行列車にも本来貨物用のD51が使われていました。しかしもともと速度の遅い貨物用の機関車に急行を引っ張らせることは無理があり、北海道の輸送改善のために白羽の矢が立てられたのが、東海道で余ったC62でした。
山陽本線では引き続きC62が使われたのですが、その時に使われたのが好調の機関車でした。長い距離を高速で走り続ける厳しい運転条件の山陽本線には不調な機関車では荷が重かったのです。一方、函館本線は上り坂やカーブがきついという点では厳しい条件でしたが、山陽本線に比べると余裕があったため、不調の機関車でもなんとかなる、と見られ、不調だった2号機は北海道行きとなります。
もっとも北海道でも不調の2号機は敬遠され、もっぱら長万部ー小樽間の補機に使われていました。補機とは、坂のきついところで連結される機関車のことです。函館本線は平らな函館ー長万部間は1両で、長万部ー小樽間は2両で引っ張っていました。
2号機が補機に使われたのは、不調である2号機が函館までいってしまった場合、当時配置されていた小樽築港機関区にその日のうちに帰ってこられないから、という説があります。
しかしこれが結果としてツバメマークのある2号機が前に来ることになり、鉄道ファンにとってはありがたいことであった、と言われています。
人間万事塞翁が馬、ということわざがあります。何が結果として幸運で何が不幸かわからない、と言う意味です。2号機は不調であったため、現場では好かれず、あまり使われませんでした。他の好調な機関車が優先的に使われ、結果として早く廃車となってしまいます。あまり使われなかった2号機は最後まで使われ、そして除煙板のツバメマークのおかげで京都の梅小路蒸気機関車館に保存されることになりました。2号機と並んで有名だった3号機は札幌市の苗穂機関区に保存されました。
5 京都での日々
本来国鉄の方針では動態保存(動かして保存する)の対象は一番小さい番号か一番大きい番号というものでした。C62の場合は1号機は現存していました。したがって本来保存されるべきは1号機でした。しかし2号機の人気を考慮して梅小路での保存は2号機となった、といういきさつがあります。1号機は広島で長い間保存され、現在は京都鉄道博物館に保存されています。
現在は「SLスチーム号」に使われています。以前はあちらこちらのイベントにも参加していましたが、足回りの不調がもはや遠出には耐えないとされ、現在は梅小路公園付近の運転に限定されています。
思えば山陽本線で2年、東海道本線で6年、函館本線で16年、梅小路で48年、戦後の日本の移り変わりの中で走り続けてきたC62 2号機ですが、いつまでも元気で走り続けてほしいものです。そしてそれが続くような平和な世の中であってほしいものです。