裏切り者人生 足利尊氏

室町幕府初代将軍足利尊氏。彼は鎌倉幕府と後醍醐天皇を裏切ったため、裏切り者、というイメージが強く残されていました。戦前は天皇に背いた大悪人、何せ「尊氏は間違ったことをしたかもしれないが、人間的にはちゃんとした男だった」という文章を二十年前に書いていただけで大臣を辞めさせられたこともありました。まあその頃は時代がおかしかったのですが。

 

足利尊氏とはどんな人物だったのか、見ていきましょう。

 

目次

1 足利氏とは

2 鎌倉幕府御家人として

3 六波羅探題を滅ぼす

4 弟のために戦う

5 後醍醐天皇との戦い

6 事実上の引退

7 弟と戦う

8 子どもと戦う

 

1 足利氏とは

足利氏は前九年の役、後三年の役の英雄、源義家の子孫です。義家の孫の源義康が足利荘という荘園の管理を任されたことから足利という名字を名乗ることになりました。

鎌倉幕府の創設にも足利義康の息子の義兼が活躍したことで義兼は北条時政の娘(つまり北条政子の妹)と結婚し、北条氏との関係を強めていきます。しかし足利家時が鎌倉幕府内部の争いに巻き込まれ、自殺に追い込まれてしまいました。それでも足利貞氏は北条一門の金沢貞顕の妹と結婚し、足利高義という跡継ぎも得て、万事うまくいっていました。しかし高義が若死にして側室の上杉清子との間に生まれた子どもを後継にしなければならなくなります。

その息子には北条高時から一字をもらって足利高氏と名乗るようになりました。同母の弟に足利直義(あしかがただよし)がいます。

 

足利氏の一門には斯波氏、畠山氏、細川氏など多くの一門がおり、源義家の血を伝える清和源氏の名門として鎌倉幕府で重んじられてきました。清和源氏の嫡流は源実朝暗殺事件で絶えてしまっており、足利氏が清和源氏の嫡流とみなされてきたのです。

 

2 鎌倉幕府御家人として

足利高氏は先祖と同じく北条氏の娘を妻に迎えます。それが一六代執権北条守時の妹でした。こうして鎌倉幕府の有力御家人として、清和源氏の名門として、北条氏の親戚として力をためていきます。

高氏の最初の戦いは後醍醐天皇の挙兵です。北条一門の大仏貞直とともに笠置山攻撃に参加しています。一旦鎌倉に帰った高氏でしたが、この時は実は貞氏が死んだばかりでしたので、実は喪に服していました。それを無理やり出陣させられたので、幕府を密かにうらんでいた、と言われます。

 

そして一年経ってまた高氏が出陣を命じられます。隠岐の島に流したはずの後醍醐が脱走し、後醍醐の呼びかけに応じた武士たちが近畿で幕府に戦いをいどんでいる中で、彼らと戦うための援軍です。

 

3 六波羅探題を滅ぼす

高氏は世の中の動きを見ていました。そして幕府にはもう未来がないと考え、自らが幕府を新しく作り直すことを考えます。高氏は後醍醐とひそかに結び、幕府を倒すことを決めます。後醍醐と戦うために丹波国篠村(しのむら)まできた時、高氏は反転して京都を攻撃します。ちなみにのちに明智光秀が織田信長を倒すために本能寺に向かったルートと同じルートです。

 

まさか高氏が裏切るとは思わなかった六波羅探題はあっさり崩壊し、探題の北条仲時は近江国の現在の米原市まで逃げますが、そこで力尽きて自害します。

 

同じ頃、高氏と同じく義家の子孫であった新田義貞が挙兵し、鎌倉幕府は一気に滅びます。

 

新田氏は足利氏と同族で、義康の兄の義重が新田荘という荘園の支配を任されたことから新田氏と名乗っていましたが、鎌倉幕府の時流に乗り遅れたため、鎌倉幕府では小さな御家人として足利氏の一部とみなされていました。事実義貞は高氏の息子の千寿王(せんじゅおう)という四歳の子どもを鎌倉ぜめの総大将にしています。この千寿王がのちの二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)です。

 

4 弟のために戦う

高氏は後醍醐から一番活躍した、と認められ、彼自身は参議という地位について朝廷の一員となります。高氏は後醍醐から一字をもらって尊氏と名乗ることとなります。そして弟の直義は鎌倉に将軍として赴任した後醍醐の皇子の成良親王の執権として鎌倉を支配することになります。

しかし幕府を認めない後醍醐と、幕府を再興したい尊氏の間にはすきま風が吹き始め、そこに幕府を自分の手で作りたい護良親王とも対立します。護良親王と尊氏の板挟みになった後醍醐は最終的に護良を逮捕し、直義に引き渡してしまいます。

 

北条氏の残党による中先代の乱で鎌倉を失った直義を救援するために尊氏は出陣を決意しますが、後醍醐はそれを拒否し、尊氏は無断で鎌倉に出陣し、中先代の乱をしずめます。それをきっかけに尊氏は後醍醐と戦うことになり、京都に攻めのぼり、京都を一旦は占領しますが、北畠顕家の攻撃を受けて九州に逃げます。

 

5 後醍醐天皇との戦い

九州に落ち延びた尊氏ですが、天皇の名前の威力を思い知った尊氏は光厳上皇の命令をもらうことに成功し、九州にいきます。効果はてきめんで、あっという間に九州を統一するとそのまま瀬戸内海を攻めのぼり、湊川で楠木正成を破ると京都を占領します。そして光厳上皇の弟の光明天皇を立てて北朝を作ります。後醍醐は最終的には吉野に逃げて南朝と作り、南北朝時代が始まります。

 

6 事実上の引退

尊氏はもともと欲のない人として知られています。このころ八月一日に贈り物をする八朔の贈り物が流行りました。いわばお中元です。尊氏は屋敷いっぱいの贈り物を受け取るのですが、きた人きた人みんなにあげるので、夕方にはすっからかんだった、という逸話があります。一方くそまじめな直義は贈り物を受け取らなかった、と言われます。

 

尊氏は清水寺に「このようは夢のようです。私はこの世ではもう望むものはありません。この世の幸せは全て直義にやってください。私はただ早く死んであの世で幸せに暮らしたいのです」という願い事を出しています。そして実際に尊氏はほとんど表には出てこないでひたすら仏にすがる日々を送っていた、と言われています。

 

一方、くそまじめな直義は自分が将軍にはならずにあくまでも兄を立てて影で幕府の全てを動かしていました。直義は真面目なので新しい武士の荒々しい感性を好まず、天皇や貴族やお寺や神社の土地を守っていました。それに対して尊氏の執事を務め、尊氏を補佐してきた歴戦の武将の高師直(こうのもろなお)は不満を持ち、師直と直義は対立することとなります。

 

師直は河内国(大阪府南部)で足利氏に抵抗する楠木正行(正成の息子)を滅ぼし、さらに吉野に侵入して吉野を焼き払います。後村上天皇ら南朝は賀名生(あのう)という山奥に逃げ込み、ここに南朝はほとんど影響力を失いました。師直の力はさらに強くなり、直義との関係は悪くなっていきます。

 

高師直像と言われています。昔は足利尊氏像と言われていました。

神護寺蔵の平重盛像と言われていましたが近年足利尊氏像という説が出ています。

これが足利尊氏像であることが確定している浄土寺蔵の像です。

神護寺蔵源頼朝像と言われていましたが近年足利直義像と言われています。

 

7 弟と戦う

師直と直義の対立は激しくなり、ついに直義は尊氏に迫って師直を失脚に追い込みます。それに対して師直は兵を集めて尊氏の屋敷を取り囲み、直義を追放することを求めるクーデターを起こします。これに始まる一連の争いを「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と言います。

観応の擾乱については次の書物が詳しいです。


観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書) [ 亀田俊和 ]

直義を追放した師直は鎌倉にいた足利義詮を上洛させ、直義の代わりをさせます。

 

再起を図る直義は南朝と和睦して尊氏・師直と戦います。一回は勝利を納めた直義は師直を殺して目的を達成しますが、尊氏との対立はもはや避けられず、北陸に逃げ、そこから鎌倉に入ります。当時鎌倉を支配していたのは尊氏の末子の足利基氏(あしかがもとうじ)でしたが、彼は直義に育てられていたため直義派でした。

 

尊氏は鎌倉を攻めなければならない、と考え、今度は尊氏が南朝に降伏します。尊氏の場合は直義と違って北朝をつぶすことまで約束します。そして南朝に攻められることがない、と判断して義詮にあとを任せて自身は直義とに戦いに向かいます。直義はあっという間に敗北し、尊氏に捉えられ、やがて死去します。毒殺という見方もありますが、最近では病死説の方が有力です。

南朝は尊氏の停戦条件を破棄して京都を一気に占拠し、北朝を徹底的に破壊することを計画します。義詮を攻撃して京都から追い払うと北朝の皇族をほとんど拉致して賀名生に監禁してしまいます。

困ったのは義詮です。京都に残っていた皇族を無理やり天皇にします。これを後光厳天皇といいます。さらに天皇の祖母の西園寺寧子(さいおんじやすこ)を院として院政を行わせます。どう考えても無理筋ですが、それしか北朝を再建する方法はなかったのも事実です。北朝の権威は大きく傷ついてしまいました。

 

8 子どもと戦う

鎌倉から帰ってきた尊氏を待っていたのは足利直冬(あしかがただふゆ)による攻撃でした。尊氏の実の子どもでしたが、子のいなかった直義の後継者として迎えられていました。直義の恩を感じる直冬は実の父親と戦う道を選びます。九州で尊氏の代官をしていたのは九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)でしたが、直冬との戦いの中で力を失い、さらに九州では後醍醐天皇がその死の間際に送り込んだ皇子の懐良親王(かねよししんのう)率いる南朝軍が力を増していて、範氏は苦戦していました。尊氏は自らの手で直冬と懐良を討つことを決めますが、病に倒れ、五十四歳で死去しました。

 

室町幕府を開いた、と言っても自分はそれを望んでいなかったと思われます。おそらく彼は自分の望まない人生をひたすら歩き続けた人生で、教科書的には成功者でしょうが、彼自身にとっては極めて不本意な人生だったでしょう。

彼は死ぬまで後醍醐天皇に恩義を感じていたらしく、後醍醐天皇の死去を聞いた時には大変衝撃を受け、後醍醐のいた亀山殿という場所を天龍寺という寺に立て替えて後醍醐の冥福を祈り、後醍醐の怨霊を封じようとしています。また普通は後醍醐からもらった名前は敵対した段階で突き返すものですが、尊氏は最後まで後醍醐からもらった名前を大事に使い続けます。

家族関係を見ても、あれほど仲の良かった直義とも最後は敵対し、一番信頼し、自分を育ててくれた師直を殺され、自分の息子は直義の見方をして親子で戦争をしなければならなかったのです。

 

本当に何から何まで思い通りにならない人生でした。

 

そして直義との不幸な関係はその後の日本を二百年以上混乱の極みにおとしいれることになるのです。

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