田沼政治と寛政の改革
三大改革の二つ目です。享保の改革のあと、田沼政治を経て寛政の改革という流れをしっかり押さえてください。
1 田沼政治
田沼政治という言い方が、当時の老中が田沼意次(たぬまおきつぐ)だったことに由来します。
田沼意次は紀州藩時代から徳川吉宗に仕えてきた側近の子として生まれました。徳川吉宗の子の家重(9代将軍)に仕え、10代将軍徳川家治の時代には側用人から老中に進出します。意次が老中であった時代を田沼時代といいます。
一言で言えば商業中心主義と言えます。
押さえておくべき田沼政治の動きとしては株仲間を作ることを進めたことです。
株仲間は中世の座と同じく同業者組合です。織田信長の楽市・楽座を継承した江戸幕府は、基本的には同業者組合を作ることに消極的でしたが、享保の改革において商業を統制するために株仲間を公認し、上納金と引き換えに販売権の独占などの特権を認められました。
この株仲間は水野忠邦の天保の改革で解散させられます。この辺しっかり覚えておきましょう。田沼に続く寛政の改革で解散させられたわけではありませんので、試験ではその辺を注意してください。
田沼時代には大規模な干拓が進められ、手賀沼や印旛沼の干拓事業によって新田開発が積極的に進められました。
さらに田沼時代には蝦夷地の直轄が計画され、幕府による北方調査団が派遣されています。
田沼時代には商業が発展する一方、農業で食べていけなくなった農民が田畑を捨てて江戸に流れ込んできたため、農村がボロボロになりはじめます。浅間山の噴火とそれに続く天明の飢饉で東北地方は大打撃を受け、しかも都市部の商業に目が向いていた当時の幕府は被災地救済をあまりしなかったために不満が高まります。災害を軽視して支持率が上がるのは非常に珍しいケースです。よほどうまく飼いならされなければ無理です。
打ちこわしや百姓一揆が起こるようになり、田沼政治に対する不満が高まってきました。そのような中、旗本の佐野政言が意次の息子の田沼意知を殺害する事件が起こり、政言は乱心として切腹させられますが、人々は政言を「世直し大明神」と呼んでほめたたえました。
徳川家治の死去によって意次も失脚し、意次は賄賂政治家という悪評をかぶせられることになりました。
今日では田沼時代も見直されていますが、入試レベルでは「改革」がプラス評価、それ以外がマイナス評価、というイメージになってしまいます。
2 寛政の改革
松平定信は徳川吉宗の孫として生まれます。吉宗の子どものうち、宗武(むねたけ)、宗尹(むねただ)、2人には徳川を名乗らせ、さらに徳川家重も次男の重好(しげよし)を取り立てたため、御三卿と言われる家が成立します。宗武の子孫を田安家、宗忠の子孫を一橋家、重好の子孫を清水家といいます。
定信は宗武の子として生まれ、聡明で知られていたため、将来的には田安家を継承して10代将軍徳川家治の後を継ぐという話もありましたが、意次のことを嫌っており、それゆえ意次への配慮のため、白河松平家に養子に入ることとなりました。もっとも家治にはこの段階では嫡子が健在だったので逸話のレベルだと考えられます。
定信は天明の飢饉の時の手腕を買われて老中首座に就任し、田沼派を一掃して寛政の改革を始めます。
基本的には祖父の吉宗の享保の改革をモデルにしていると言われます。基本路線は農村の復興、財政再建、ゆるんだ規律の立て直しです。
天明の飢饉による支出の増加により幕府財政は苦しくなっていました。定信は厳しい倹約令を出して財政再建に努めます。また関東における産業を育成し、その結果、銚子や野田では醤油の生産が始められ、現在にまで続きます。有名なところではキッコーマン(千葉県野田市)、ヤマサ(千葉県銚子市)があります。地理の方で出てきますのでぜひ千葉県の銚子・野田の醤油(醸造業)は覚えておきましょう。
飢饉対策として「囲米の制」があります。飢饉に備えて大名に米をたくわえさせます。
旗本・御家人を助けるために借金の帳消しを命じた「棄捐令(きえんれい)」も外せません。
思想統制では「寛政異学の禁」をしっかり覚えておきましょう。これは朱子学以外の儒学を幕府の正式の学問所である昌平坂学問所で教えることを禁止したものです。別に朱子学以外の学問を弾圧したわけではありません。
また在野の学者による幕府政治への批判を禁止します。「日本は海に囲まれているのでもっと海防を強化すべきだ」と主張した林子平、洒落本作者の山東京伝らが処罰されます。
定信の政治は厳しすぎたため、世の中に定信への不満が高まってきます。
狂歌を二首紹介しておきましょう。
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし 文武というて 夜も寝られず
これは「かほど(これほど)」と「蚊ほど」をかけ、蚊の羽音の「ぶんぶ」を「文武」にかけています。
白河の 清きに魚の 住みかねて もとのにごりの 田沼恋しき
「白河」は白河藩主だった定信のことです。白河があまりに清いので魚が住めない、ということです。これは「水清ければ魚住まず」ということわざを下敷きにしています。
この狂歌はどの時代のものですか、という問題は出ても不思議ではありません。しっかりと押さえておいてください。