江戸時代の政治3 享保の改革

江戸時代の政治過程のおおざっぱな流れについてはこちらをご覧ください。

歴史の大きな流れを押さえようー江戸時代

 

要するにまずは三大改革を覚えましょう。これにつきます。三大改革をしっかりと押さえた上で三大改革の前の綱吉政治から正徳の治の流れ、享保→田沼→寛政→大御所政治→天保の改革という流れを押さえます。

 

まずはアウトラインです。

享保の改革は8代将軍徳川吉宗によって行われた幕府の財政の立て直しおよび政治改革です。

1 財政の立て直し

⑴年貢率の引き上げ→四公六民から五公五民へ

⑵コメの値段の安定化→米将軍

⑶新田開発→商人の力を利用

⑷上米の制→石高に応じて米を納めさせる代わりに参勤交代をゆるめる

2 政治改革

⑴目安箱の設置→小石川養生所と町火消の整備

⑵公事方御定書(くじかたおさだめがき)→裁判の規範

 

1 財政の立て直し

江戸幕府の財政は綱吉時代にかなり悪化し、その立て直しは急務でした。正徳の治は財政の立て直しの試みでしたが、新井白石という旗本がリーダーではうまくいきません。足をひっぱるやつはいくらでもいました。

 

徳川家継が7歳で死去し、結局御三家の紀州家から、徳川吉宗が迎えられ、正徳の治は終わりました。

⑴年貢率の引き上げ

従来年貢率は取れ高の40%でした。もっともこれは天領の話で、それぞれ大名ごとに決められますが、一応幕府に合わせることになっています。さらに吉宗は年貢の取り方を変えます。

従来は取れ高の40%をそのまま年貢として納めていました。これを検見法(けみほう)といいます。

吉宗は過去の取れ高の平均を出し、それの50%を年貢として納めることにしました。これを定免法(じょうめんほう)といいます。

この利点は幕府の財政が安定することにあります。百姓サイドにとってのプラス面は新田開発をすれば、その分はまるまる百姓のものになりますので、新田開発の意欲が増す、という面があります。

もう一つは検見法だと代官がいちいちやってきてチェックする手間がかかりますし、百姓からすれば代官をもてなしたり、いろいろ面倒なことが起こります。定免法だとコストが下がり、不正が行われにくくなるというメリットがありました。

 

吉宗の増税策は実際にはかなりの負担増でした。当時の年貢は江戸時代初期の取れ高によって計算していましたから、年貢率は27%まで低下していました。それをいきなり50%ですから、農民にとっては非常に大きな負担です。

吉宗の享保の改革の結果、増加してきた人口は頭打ちとなり、明らかに吉宗の政治が百姓には大きな負担となったことがうかがえます。

 

⑵コメの値段の安定化

幕府の収入は米でしたが、実際には貨幣を使います。そこで幕府や大名は米を売ってお金に換えます。その時米の値段が不安定だと幕府の財政も不安定になります。吉宗は米の値段を気にしていたため、米将軍とあだ名がつきました。「八木将軍(はちぼくしょうぐん)」あるいは「八十八将軍」と「米」の字を分解して付ける場合もありました。

 

⑶新田開発

吉宗の時代の新田開発の特徴は、大規模な堤防工事を行って河川の下流域を一気に水田化してしまうところにありました。その時に商人の資本を投入して大規模に行った結果、幕府の財政は大幅に増加し、支出を抑えたこともあって幕府の財政は10年あまりで黒字となりました。400万石が460万石に増えた、と言われています。

 

⑷ 上米の制

上げ米の制とは、大名に石高に応じて上米を命じるものです。つまり一万石の石高につき百石の米を幕府に納めさせました。その代わりに参勤交代で江戸にいる期間をそれまでの一年から半年にしました。江戸在府はお金がかかるので大名にとってはあまりうれしくなかったのです。

 

一応中学受験ではこの程度で十分と思われますが、もう少し詳しく見ていきますと、以下のものもあります。

足高の制(たしだかのせい)

江戸幕府の役職にはそれに応じた石高があります。例えば大目付は3000石です。しかし3000石よりも小さな旗本が有能で大目付につけたいときはどうするか、といえば3000石にしてやるのです。それが続くと幕府の支出は増えます。そこで大目付の間だけ3000石にして、大目付を辞めた時には元に戻す、というのがこの足高の制です。

 

2 政治改革

⑴目安箱の設置

目安箱とは、将軍に直接不満や要望を訴えることのできる制度です。

江戸城前の箱に住所・氏名を書き入れた書状を入れると、それが将軍に直接差し出されて将軍が町民の訴えを聞くことができます。江戸の貧しい人々が病気で苦しんでいることを訴えたことに対応して小石川養生所といういわば病院を建てています。また町火消しを整備しています。

 

⑵公事方御定書の制定

公事方御定書は江戸幕府の基本法典です。犯罪に対する刑罰のことが定められています。

 

あとは漢訳洋書の輸入解禁が有名です。これによって洋学(蘭学)が発展しました。

相対済令(あいたいすましれい)は金の貸し借りの裁判は行わず、当事者同士での決着を命じたものです。借金の裁判に忙殺され、他の裁判が滞ることを避けるためでした。

 

 

享保の改革は一定の効果をあげましたが、年貢の負担によって百姓一揆が増加し、人口の伸びも止まったこと、厳しすぎる倹約令によって文化の停滞を招いたことなど、問題点も残す結果となりました。

 

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