歴史の大きな流れを押さえようー昭和時代2
政党政治が終わり、「憲政の常道」が通用しなくなる時代です。ただこれをファシズム・戦争一直線とするのも誤っています。受験ではこの辺は五・一五事件、二・二六事件、日中戦争、太平洋戦争とざっくり流します。そして特に神戸女学院ではしばしば日中戦争の盧溝橋事件の場所と満州事変の柳条湖事件の場所、当時の中華民国の首都の南京の位置を聞く問題が出されています。神戸女学院を受験する方は一応押さえておいて損はないと思います。もっとも今年は出ないと思いますが。
中学受験対策としては赤字の部分を押さえておいてください。
軍部独裁へ(斎藤実内閣・岡田啓介内閣・広田弘毅内閣・林銑十郎内閣・第一次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣・阿部信行内閣・米内光政内閣・第二次近衛文麿内閣・第三次近衛文麿内閣)
上にあげた内閣のうち近衛文麿と広田弘毅と平沼騏一郎を覗くと軍人が組閣することが多くなったため、軍部の力が伸びている、と評されがちですが、斎藤内閣・岡田内閣・米内内閣は比較的穏健と考えられがちです。それだけに国粋主義者の圧力を受けやすく、トカゲの尻尾切りのように学問弾圧を行うことも多いです(斎藤内閣の滝川事件、岡田内閣の天皇機関説事件)。
むしろここでは内閣が非常に短期間に交代し、日本の行く末をめぐって色々と考えられ、争われていたんだな、ということを理解していただければよいか、と思います。
斎藤内閣・岡田内閣・広田内閣・近衛内閣を中心に見ていきたいと思います。
1 斎藤実(さいとうまこと)内閣
犬養毅総理の暗殺(五・一五事件)後、憲政の常道に従えば、立憲政友会総裁の鈴木喜三郎か司法官僚で政友会の右派の支持を得ていた平沼騏一郎が順当と思われましたが、元老の西園寺公望は英米との協調外交と憲法遵守を総理の条件と考えており、退役海軍大将で元朝鮮総督を務めた斎藤実を総理大臣に推薦し、斎藤内閣が組閣されます。
斎藤内閣は立憲民政党と立憲政友会の双方から入閣したいわゆる「挙国一致内閣」でした。しかしその前途は多難でした。
⑴国際連盟脱退
満州国の建国を認めず暗殺された犬養首相とは異なり日満議定書を締結し、満州国を承認しました。しかし国際連盟が派遣したリットン調査団の提出した報告書は満州国建国を認めず、一方で満州における日本の権益・居住権を確保する、満州に自治政府を作り、国際連盟の管理下に置く、というものでした。両者に配慮したもので、必ずしも日本の主張を一方的に排除したものではなかったのですが、日本国内の世論は受諾反対に傾き、斎藤内閣は1933年に国際連盟脱退を選択し、国際孤立の道を歩むことになりました。
⑵ 中島久万吉商工大臣辞任
中島久万吉商工大臣は実業家であり、貴族院議員でもありましたが、文化人でもあり、1921年に俳句の同人雑誌に足利尊氏を再評価すべきという感想文を書いていました。
ところが親英米・国際協調・立憲主義的な斎藤内閣の方針をよく思わない軍部出身の政治家たちは、斎藤内閣を引き摺り下ろすために様々な活動を行なっており、予備役陸軍中将であった菊池武夫貴族院議員は1934年になって23年前の中島大臣の文章を引っ張り出し、中島大臣と斎藤総理の攻撃をはじめ、世論も斎藤内閣非難に傾いて宮内省に苦情の投書が殺到し、最終的に中島大臣は辞任に追い込まれました。
⑶ 滝川事件
1932年、滝川幸辰(たきがわゆきとき)京都帝国大学教授の自由主義的な刑法学説が、裁判官などの「赤化」(共産主義化)を招いている、という非難が菊池武夫貴族院議員や右翼的論客であった蓑田胸喜らによって唱えられ、ひいては斎藤内閣の文部大臣であった鳩山一郎(戦後総理大臣、元総理の鳩山由紀夫の祖父)にその非難が向きました。
鳩山大臣はとりあえず滝川教授の休職で乗り切ろうとしますが、今度は京大の反発を呼びます。京大の教授会から大量の辞職者を出し、京大法学部は大きな打撃を受けました。京大を辞職した教授は西園寺の元秘書だった中川小十郎が設立した立命館大学に再就職し、立命館大学は思わぬ漁夫の利を得ることとなりました。立命館大学が発展するのはこの滝川事件がきっかけです。
⑷ 帝人事件
滝川事件で知識人からの支持も失った斎藤内閣でしたが、それで満足するほど平沼騏一郎と菊池武夫の恨みは浅くありません。繊維会社の帝人と鳩山大臣の汚職事件が報道され、政権批判が高まり、斎藤内閣は総辞職しました。ちなみに帝人事件は1937年に全員無罪の判決が出ましたが、時すでに遅しでした。これは斎藤を憎んでいた平沼とその背後の検察が斎藤内閣を倒すために起こした冤罪であったと言われています。
2 岡田啓介内閣
元老西園寺公望と周辺は斎藤内閣を失敗したとは考えていませんでした。そこで引き続き挙国一致内閣、総理を海軍から出す、ということで斎藤内閣の海軍大臣を務めていた岡田啓介後備役海軍大将に組閣の大命が下されました。ちなみに予備役・後備役・退役というのは現役の軍人が引退した後の肩書で、予備役・後備役は一応軍人ですが、退役は軍人もやめている、という状態です。
⑴ 天皇機関説事件
岡田内閣に対して前回の選挙で勝利していた立憲政友会は野党的立場を貫き、岡田内閣は立憲民政党を有力基盤としていました。岡田は政友会から三人の大臣を引き抜き、無理矢理に挙国一致内閣の形をとりますが、政友会はますます硬化し、それに対して岡田も政友会の元総裁で、斎藤内閣でともに大臣(岡田海軍大臣と高橋是清大蔵大臣)を務めていた高橋是清を引き抜き、ますます政友会との関係は悪くなります。
このような時に当時の憲法学説の主流であった天皇機関説(天皇は国家の最高機関であり、天皇そのものに主権が存在するわけではないという、立憲君主体制を主張する考え方)が、天皇は神聖であり、神から権力を与えられているのであるという天皇主権説と対立していました。
1935年、菊池武夫貴族院議員がまたまた貴族院で同じ貴族院議員で天皇機関説の主要論者であった東京帝国大学教授の美濃部達吉を非難します。菊池の動きによって美濃部は不敬罪で取り調べを受け、貴族院議員を辞職、美濃部の著書は発禁処分を受けました。菊池や政友会から迫られた岡田内閣はとりあえず「国体明徴声明」を出して天皇機関説を否定しました。
これを聞いた昭和天皇は「機関説がよいとか悪いとかいう議論をすることは無茶な話」「ああいう学者(美濃部)を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」と発言しました。また上皇は皇太子時代に「大日本帝国憲法のいろんな解釈ができた日から、できなくなってしまった時代ということ」とコメントしています。
⑵ 二・二六事件
岡田啓介総理は政権運営にはかなり苦労していたようです。斎藤は海軍を抑えていましたが、岡田は出身の海軍にまで突き上げられ、ロンドン軍縮条約からも離脱するなど、国際孤立を強める動きをしていました。岡田内閣自身は基本的には天皇機関説支持とみられていましたが、そこでも譲歩を繰り返し、機関説を最終的に否定してしまいます。
しかし譲歩しても相手の狙いが機関説ではなく岡田内閣本体であることを考えれば、そこで譲歩するのは無意味だったかもしれません。1936年、野党立憲政友会が内閣不信任案を提出、岡田内閣は衆議院解散を実施し、総選挙で立憲民政党が第1党となり、岡田内閣の政権基盤は強化されたかに見えました。
その岡田内閣を襲ったのが二・二六事件です。
当時陸軍では皇道派と呼ばれる派閥と統制派と呼ばれる派閥が争っていました。皇道派が追い詰められる中、皇道派の陸軍青年将校が政府転覆のクーデタを計画し、政治家を襲撃しました。1936年2月26日のことです。これを二・二六事件と呼びます。
岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣・高橋是清大蔵大臣らが襲撃され、高橋大臣、斎藤内大臣(前総理)、渡辺錠太郎陸軍大将・教育総監らが殺害、岡田総理、鈴木侍従長が重傷を負いました。
事件に参加した若手将校たちは昭和天皇を担ぎ上げて軍隊による昭和維新を成し遂げようとしており、政府内にもこれをきっかけに昭和維新を断行しようという動きもありましたが、昭和天皇自身が「速やかに鎮圧せよ」と命令、陸軍同士の戦闘を恐れる陸軍は動きをためらいますが、昭和天皇の「自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かう」という意気込みに押され、二・二六事件は解決に向かいました。
結局この反乱を後ろから煽っていただろう高級軍人は左遷ですみ、「血の気の多い青年将校がけしからん思想家に煽られた」という形で処理されてしまいました。しかし皇道派は力を失い、陸軍では東條英機中将を中心とする統制派が力を強めていきます。
この事件で盟友の高橋是清・斎藤実、義弟の松尾伝蔵を失った岡田の精神的なダメージは大きく、3月9日に岡田内閣は総辞職しました。岡田はその後は重臣として活動し、太平洋戦争終結に向けて東條英機内閣打倒運動などに尽力することになります。
3 広田弘毅(ひろたこうき)内閣
五・一五事件と二・二六事件、さらには様々な学問弾圧事件が示したものは「陸軍に逆らうと内閣は持たない」「命すら危ない」というものでした。このような状況では総理大臣のなり手はいません。まずは公爵で摂関家筆頭の近衛文麿に打診しますが、国家主義的な近衛はリベラルな西園寺と不仲で断られ、元老西園寺が指名したのが岡田内閣の外務大臣を務めていた広田弘毅でした。
広田は陸軍からの人事介入を受けながらなんとか組閣し、政友会・民政党・貴族院などをバランスよく配置した挙国一致内閣でした。まず陸軍の要求で取り組んだのが皇道派を一掃し、統制派で固める「粛軍」でした。そしてこの時予備役に編入された皇道派の大将を軍部大臣にしないために軍部大臣現役武官制を復活させます。
ここで軍部大臣現役武官制について説明します。これを知っておかないと、太平洋戦争に至る日本の道筋が分かりづらくなります。
軍部大臣現役武官制とは、軍部大臣、つまり海軍大臣と陸軍大臣は現役の中将・大将に限定するというものです。これによって陸海軍は内閣をコントロールすることができます。つまり内閣が気に入らなければ大臣を辞任させ、後任の大臣を出さなければ簡単に倒閣できる、というシステムです。第二次西園寺内閣がそれで倒閣されています。それを受けて憤激した世論によって第三次桂太郎内閣が倒閣されたのち、第一次山本権兵衛内閣は軍部大臣の資格を予備役・後備役の中将・大将に広げ、倒閣されにくいようにしていました。
広田内閣で再び軍部大臣を現役の中将・大将に限定することで、軍部の内閣への影響力は大きくなり、内閣は軍部の意向に全面的に左右されることになりました。
そして立憲政友会の浜田国松衆議院議員が軍部によって言論の自由が圧迫されていることを演説し、寺内寿一陸軍大臣と議論になり、寺内大臣は議会の解散を要求しましたが、閣内不一致として広田内閣は総辞職となりました。
広田はその後は近衛内閣の外務大臣としても活躍しますが、戦後の東京国際軍事裁判でA級戦犯として訴追され、文民では唯一の死刑判決を受けています。
4 近衛文麿内閣
広田内閣総辞職後、組閣の大命は加藤友三郎内閣の時に陸軍大臣として陸軍の軍縮を敢行した宇垣一成予備役陸軍大将に下りました。宇垣ならば陸軍への抑えも利き、また宇垣自身はファシズムに対し批判的な人物でもあったので当時の世の中にはぴったりと思われていました。しかし宇垣が総理大臣になると陸軍が抑え込まれると判断した陸軍は宇垣に対して陸軍大臣を出さない、と決定し、宇垣内閣はできませんでした。
⑴林銑十郎内閣
その後満州事変に当たって朝鮮軍を派兵し、越境将軍と呼ばれていた林銑十郎予備役陸軍大将に大命は下り、林内閣が発足しますが、政党との協力を拒み、貴族院と軍部中心の内閣を組閣したため、議会の協力を得られず、衆議院解散でも敗北し、123日で総辞職に追い込まれてしまいます。
「何もせんじゅうろうないかく」と皮肉られた林内閣の後には西園寺は貴族院議長であった近衛文麿に大命が下ります。近衛は外務大臣に宇垣一成を、文部大臣に皇道派の軍人として粛軍で予備役編入された荒木貞夫予備役陸軍大将を入れ、他には政友会、民政党を入れた挙国一致内閣を組閣しました。
⑵日中戦争
近衛内閣発足1カ月後の1937年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発しました。さらに首都の南京を日本は占拠しますが、その時に多くの犠牲者を出しました。これを南京事件と呼びます。柳条湖(満州事変)、盧溝橋(日中戦争)、南京、上海の位置と何が起こったかを問う設問はしばしば見かけますので、難関中学を受ける人は押さえておいてください。中学受験レベルでは上海はダミーです。
近衛は不拡大方針を表明しながら世論に流され、拡大策を取り、現地軍の停戦交渉を無視して派兵を拡大するなど日中戦争を拡大化させてしまいます。1938年には「国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明を発して中国との講和の道を閉ざしてしまいました。
1938年には国家総動員法を制定、配給制度が始まり、国民の生活は苦しくなり始めます。戦争を進める大義名分のために「東亜新秩序建設」を戦争の目的とするという第二次近衛声明を発します。
そのような中、宇垣一成外務大臣はイギリスを介して近衛声明の見直しと中国との和平交渉を目指しますが、近衛は協力せず、宇垣は外務大臣を辞任、日中の外交交渉は完全に終わってしまいました。宇垣が中国から引き出した条件はかなり日本側に有利だったようで、ここで手を打っていれば歴史は変わっていたのでしょうが、日本はこのチャンスを見送り、もっと大きな戦果を目指して宇垣の努力を消し去ってしまったのでした。
宇垣工作が見捨てられた背景には、国民党から汪兆銘(おうちょうめい)を引き抜いていたことがあります。近衛内閣は汪との交渉に入りますが、その直後に突如内閣総辞職しました。
⑶平沼騏一郎内閣
近衛内閣の後に枢密院議長だった平沼騏一郎に組閣の大命が下り、平沼内閣が発足します。ほぼ近衛内閣を引き継いでいましたが、ドイツとの関係強化を目指していたところ、ドイツは突然ソ連と独ソ不可侵条約を結んだことを受けて「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職しました。
⑷ 阿部信行内閣
平沼内閣の総辞職を受けて阿部信行内閣が成立します。予備役陸軍大将の阿部を中心に貴族院・軍人・立憲政友会・立憲民政党からなる挙国一致内閣です。組閣直後の1939年にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
阿部内閣は大戦不介入の方針をとり、日中戦争の解決に務めたものの、あちらこちらでもめ事を起こした日本は国際孤立を強め、阿部内閣は行き詰まって内閣総辞職となりました。
⑸ 米内光政(よないみつまさ)内閣
阿部内閣総辞職を受けて陸軍内部では日独伊三国同盟への期待が高まっていきました。しかし昭和天皇は日独伊三国同盟が第二次世界大戦に参戦することになると心配し、有力視されていた阿部内閣の陸軍大臣だった畑俊六陸軍大将ではなく、昭和天皇自ら米内光政海軍大将を推薦しました。米内大将が海軍の中でも良識派として知られており、昭和天皇の信頼も暑かったからでした。
しかし日独伊三国同盟に反対、近衛文麿の新体制運動(ドイツやイタリアの全体主義を学ぼうという運動)への消極姿勢によって陸軍および陸軍を支持する世論から反発を受けました。
米内内閣発足直後には立憲民政党の斎藤隆夫衆議院議員による反軍演説(日中戦争への反対演説)が行われ、斎藤議員は衆議院から除名されてしまいます。この時賛成296票、反対7票、棄権や欠席など144名となり、政党自体がもはや言論の府としての機能を果たしていないことが誰の目にも明らかになりました。
ヨーロッパではナチスドイツがフランスを降伏させた段階で、国内世論はドイツとの同盟に大きく傾き、ドイツとの同盟に反対していた米内内閣への風当たりは強くなり、畑俊六陸軍大臣が単独辞任、その後の陸軍大臣を陸軍は出さず、米内内閣は総辞職に追い込まれてしまいました。ちなみにこの時の畑大将の辞任は東京軍事裁判で戦争責任を問われますが、米内は畑をかばって畑の死刑を回避させています。
昭和天皇は戦後に「もし米内内閣が続いていたら(太平洋)戦争にはならなかっただろう」と述べたことが知られています。